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レッドアローとスターハウス の商品レビュー

3.8

19件のお客様レビュー

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2021/06/23

新所沢で育った身として、知らなかったことが沢山あった。元々は北所沢だった、駅が初の橋上構造だった、等。米軍の敷地だったり、航空管制塔がある為に、住んでいた時はソ連の核ミサイルの標的になっていると本気で信じていた。さらに防衛医大もあって国の重要な場所だという自負もあった。ライオンズ...

新所沢で育った身として、知らなかったことが沢山あった。元々は北所沢だった、駅が初の橋上構造だった、等。米軍の敷地だったり、航空管制塔がある為に、住んでいた時はソ連の核ミサイルの標的になっていると本気で信じていた。さらに防衛医大もあって国の重要な場所だという自負もあった。ライオンズが誕生した時の興奮は今でも覚えている。 本書は、そんな新所沢の象徴だった駅前の団地の歴史の一端に触れた貴重な記録だ。 実はこの地を離れてから、既に育った年数以上が経った。今では団地も含め街並みもすっかり変わってしまった。さらにこれも誕生から知っていたパルコ撤退のニュースを聞くにつけ、自分が知る場所じゃなくなっていく寂しさも感じていたので、本書は自分の原点を思い出させてくれた、大変有意義なものだった。

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2020/08/28

我が国の高度経済成長期に、親米反共主義の堤康次郎の意思に反して、西武鉄道沿線で開発された団地を中心にソ連的住宅と共産主義が台頭していく様をあぶり出していく本書。スターハウスという建物の斬新さはその後は姿を消し、画一的な4~5階建ての集合住宅での公団住宅が造成され、そこには中間階級...

我が国の高度経済成長期に、親米反共主義の堤康次郎の意思に反して、西武鉄道沿線で開発された団地を中心にソ連的住宅と共産主義が台頭していく様をあぶり出していく本書。スターハウスという建物の斬新さはその後は姿を消し、画一的な4~5階建ての集合住宅での公団住宅が造成され、そこには中間階級が入居したことにより、公の住民福祉が満足されない問題を顕在化させることになったことが、よく理解できた。もしかしたら日本人は、江戸の昔から社会主義的思想から抜け出せなかったのかも知れない。

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2019/12/12

戦後西武線沿線に作られた団地群と、そこから生まれた政治活動や沿線カルチャー、気風を西武グループの歴史と絡めて考察。 東京育ちの私には、西武と東急の開発ポリシーの違いや、沿線住民の気風の違いなど興味深かった。 何よりも衝撃的だったのは、自分が子供時代に育った公団団地と、ソビエト...

戦後西武線沿線に作られた団地群と、そこから生まれた政治活動や沿線カルチャー、気風を西武グループの歴史と絡めて考察。 東京育ちの私には、西武と東急の開発ポリシーの違いや、沿線住民の気風の違いなど興味深かった。 何よりも衝撃的だったのは、自分が子供時代に育った公団団地と、ソビエトの共同住宅が激似だったという、著者自らの体験記だ。 西武の総裁は極めて天皇、自民、米国礼賛主義者だったのに、その沿線や団地では共産党支持住民基盤が形成され、赤旗祭りや共産系自治会活動がさかんに行われたという。その源泉は、完全に均質な住宅何千棟に世代、階層的にも同質な住民たちが地縁ゼロで集住するという、団地の人口空間にあったのではと。 コミューンとまで呼ばれる集団を形成した西武線沿線団地群だが、それ以前には結核療養所が何十とやはり共産主義コミューンを形成していたという。 しかも開通した急行列車はロシアのそれと同名の「赤い矢」号。なんか出来すぎている。 平成が令和となって昭和がさらに遠くなった今、歴史書として昭和を辿っておくのは良いことだと思う。 特に、ピークアウトした昭和と氷河な平成しか覚えてない私たち世代にとっては、戦後の復興、高度成長の熱かった昭和の時代の余熱を読み返すことは、大事かもしれない。

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2017/08/04

戦後一面の原野に突如出現した人工的住居空間「団地」を母体とする思想独特の性格を、歴史的に解明して興味ぶかい。

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2016/04/20

反共だった堤康次郎が勧めた西武園線沿いの団地はソ連のそれが参考にされた。 理由として戦後、都心の人口増加に対応するには質より量が重視され、自家用車が普及していなかったため、アメリカのような郊外住宅地の建設が不可能だったためである。 また、かねてから沿線には結核やハンセン病患者の...

反共だった堤康次郎が勧めた西武園線沿いの団地はソ連のそれが参考にされた。 理由として戦後、都心の人口増加に対応するには質より量が重視され、自家用車が普及していなかったため、アメリカのような郊外住宅地の建設が不可能だったためである。 また、かねてから沿線には結核やハンセン病患者の療養施設があり、彼らを支援する共産系の団体の活動があった。 ゆえに団地コミュニティに共産の活動が入ってくるのは自然であり、一時期共産の支持が高くなった、という研究。

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2020/07/27

西武が湘南地域の土地を取得した経緯は知らなかった。◆◆ひばりが丘団地に不破らが居たとは。◆親米反ソの康次郎と社会主義的な公団住宅と沿線住民はなるほどと思う。◆◆狭山事件もこういうことかと初めて知る。

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2014/11/18

先日初めてレッドアローに乗車しました。池袋駅で乗り場がわからなくて上がったり下がったり。東京では生活圏が違うとまったく自分には関係のない電車が出てきます。その関係ないはずの路線である西武池袋線、西武新宿線で挟まれたエリアが、世界でもっとも社会主義が成功した資本主義国日本の政治意識...

先日初めてレッドアローに乗車しました。池袋駅で乗り場がわからなくて上がったり下がったり。東京では生活圏が違うとまったく自分には関係のない電車が出てきます。その関係ないはずの路線である西武池袋線、西武新宿線で挟まれたエリアが、世界でもっとも社会主義が成功した資本主義国日本の政治意識の揺籃の地となって、例えばジブリの「となりのトトロ」の自然観まで影響を与えるというスリリングな論考です。「反共親米」の資本である西武・堤康次郎の野望と上田耕一郎・不破哲三という日本のマルクスブラザーズの活動、秩父宮と昭和天皇の微妙な距離感、堤清二と堤義明の確執、西武と東急との戦争、そして共産党と公明党の自治会へのアプローチ、などなど数々の東京郊外を舞台にした二項対立がダイナミズムを生み出し日本人の意識を形成していく様子が感得できます。たぶんあの時代に人格形成をした鉄っちゃんである著者が天皇制や政治思想史の専門家となって初めて書ける本かも。

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2013/11/10

やはり東京はたくさんの村落の集合としての都市であり、鉄道路線がそのカテゴリーを作ってる。地方なら例えば郡に相当するような。中央線沿線と西武新宿線沿線では、大した距離はなくても違うものに対する帰属意識がはっきりと出ている。
堤が反ソ親米路線を地で行ったとはいえ、沿線の開発に対して力...

やはり東京はたくさんの村落の集合としての都市であり、鉄道路線がそのカテゴリーを作ってる。地方なら例えば郡に相当するような。中央線沿線と西武新宿線沿線では、大した距離はなくても違うものに対する帰属意識がはっきりと出ている。
堤が反ソ親米路線を地で行ったとはいえ、沿線の開発に対して力を入れなかったがゆえ、西武鉄道の沿線は公団住宅の森となり、それが国家が描いた新中間階級のアメリカ的マイホームとなるかと思えば、空間的な理由でソ連的都市が生まれ、共産主義の温床となる。
団地という空間、西武鉄道沿線という空間が特有の政治的状況を生み出し、氏の唱える空間政治学のいい例となっている。
空間が何が別の次元に何らかの写像ももたらす。または何らかの次元の写像としてある空間が生まれてくる。そういう視点、手法論としてで建築の分野でも活かせるかもしれない。

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2013/05/07

新米反共の保守政治家堤康次郎が築き上げた西武鉄道。しかし、その沿線住民にはむしろ革新思想が拡がっていく。戦後の深刻な住宅不足を解消すべく立ち並んだ団地郡、好むと好まざるとがひとからげになった、かつてない住環境。けしていいとはいえない生活インフラへの不満は、次第に、巨利をむさぼる西...

新米反共の保守政治家堤康次郎が築き上げた西武鉄道。しかし、その沿線住民にはむしろ革新思想が拡がっていく。戦後の深刻な住宅不足を解消すべく立ち並んだ団地郡、好むと好まざるとがひとからげになった、かつてない住環境。けしていいとはいえない生活インフラへの不満は、次第に、巨利をむさぼる西武に対して住民たちの連帯と団結を促した。そもそも、堤康次郎その支配体制は多分に一党独裁的であり、西武という風土が既に革新政党との親和性があったというのも興味深い。団地という思想から切り開かれる著者の空間政治学、その真骨頂。

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2013/04/26

●:引用、→:感想 ●もちろんひばりヶ丘団地や滝山団地にこうした組織はなかったが、私が通った東久留米市立第七小学校では、「集団が自己の利益や名誉を守ろうとして対象に怒りをぶっつけ、相手の自己批判、自己変革を要求して対象に激しく迫ること」、すなわち「追求」が公然と行われた(前掲『...

●:引用、→:感想 ●もちろんひばりヶ丘団地や滝山団地にこうした組織はなかったが、私が通った東久留米市立第七小学校では、「集団が自己の利益や名誉を守ろうとして対象に怒りをぶっつけ、相手の自己批判、自己変革を要求して対象に激しく迫ること」、すなわち「追求」が公然と行われた(前掲『滝山コミューン1974』)。団地という同質的な社会に中央の政治が持ち込まれることで、「下からのデモクラシー」が変質し、自治会に代わってコミュニティーの中核となる小学校の舞台に「滝山コミューン」のような世界が作り出されたことは、銘記されるべきであろう。 →著者の激しい怒り、恨みを感じる。大人、そしてそれに無批判に迎合する多数の児童のリベラリズムの抑圧に対する、無力な個人の無抵抗感への怒りか?小学生の時のことなのに。トラウマなのだろう。自分の時代にも反省会なるものがあっって、”○○君は今日、こんなことをしました。悪いと思います。”なんていう女子がいたが、名指しされた○○は「すみません。反省します」みたいなことを言って、次の日には同じことをやっていたような気がする。それが当たり前な学校生活と思っていた。

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