なぜ古典を読むのか の商品レビュー
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最初に出てくるカルヴィーノの定義した「古典とは」を何度も噛み締めながら読む。シンプルに見えるが、行動に移すのが実は難しかったりもする。 特に好きだったのは以下の4フレーズ。 ・古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である。 ・古典とは古代の護符に似て、全宇宙に匹敵する様相をもつ本である。 ・「自分だけ」の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨に、もしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある。 ・古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえでその本を読むと、たちまちそれが「古典の系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる。 以上 自分だけの古典、なんて素敵だよなあ、本との対話という言い方をするけど、自分の鏡になる体験は素晴らしいと感じた。 カルヴィーノが取り上げている個々の古典は読んだことがあったりなかったり。読んだことない本は正直あまり頭に入ってこない。でも、もう一度、古典とは、に戻るとおぼろげながら理解できた気になる。
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時間切れ読了できず。 古典の素養がなさ過ぎて、中身が入ってこなかった。それでも少しずつ読み進めたが、タイムアップ、これ以上はサンクコスト考えても、諦める方が良いと判断。 ある程度、古典を読み込んだうえで手に取った方が良い1冊。
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イタロ・カルビーノ イタリアの作家・編集者 2022/3/27 再読 対独レジスタンスのパルチザンに参加
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イタロカルヴィーノ「なぜ古典を読むのか」http://kawade.co.jp/np/isbn/9784309463728/ 読んだ。読書すばらしい。タイトルが問いかけだけど答えを提示する内容じゃなく読書案内と書評集だった。英米文学網羅は勿論だけど珍しく仏文が入ってるのはイタリア...
イタロカルヴィーノ「なぜ古典を読むのか」http://kawade.co.jp/np/isbn/9784309463728/ 読んだ。読書すばらしい。タイトルが問いかけだけど答えを提示する内容じゃなく読書案内と書評集だった。英米文学網羅は勿論だけど珍しく仏文が入ってるのはイタリアのお隣で文化的に身近だったからかな。教養を考える良書(おわり
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なぜ読むのか、と言われてもそもそもなかなか手が伸びにくいものではある。あまりにも膨大で変なところに手をつければ崩れて埋もれてしまうんじゃないかと腰が引けてしまう。 そんなことはカルヴィーノも分かっている、ただ古典のほうから呼びかけ続けるものだから手をとるより仕方がない。ここで紹...
なぜ読むのか、と言われてもそもそもなかなか手が伸びにくいものではある。あまりにも膨大で変なところに手をつければ崩れて埋もれてしまうんじゃないかと腰が引けてしまう。 そんなことはカルヴィーノも分かっている、ただ古典のほうから呼びかけ続けるものだから手をとるより仕方がない。ここで紹介される様々な古典はしたがって、書物のそれぞれの気候と眺望から描かれる。 彼の「見えない都市」と同じような手触りで、読めるようで読めないが、非常に楽しませてくれる。ぐいぐい手を引っ張りながらそれぞれの書物を訪問させてくれる。 訳者あとがきで述べられてるようにごつごつとわかりにくいところも多いけれども、また、古典の入門書でもまったくないが、読むことの愉しみがしっかりと詰め込まれている。 っていうか、訳者が須賀さんなのはわかってたけど、その上に池澤氏まででてきちゃうんだから、はぁ、僕のこの文章はそのうえのお節介なんてことになってしまうじゃないか。
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『薔薇の名前』でイタリア文学に遭遇し、『冬の夜、ひとりの旅人が』でカルヴィーノに出会った。視覚の帝国としてイタリアを偶像化していた当時の僕も、彼の訥々とした語り口には洗練されたダンディズムを感じ、以来暫くイタリア文学に凝って読書を進めていた時期を思い出す。 さて、本書はそんなカル...
『薔薇の名前』でイタリア文学に遭遇し、『冬の夜、ひとりの旅人が』でカルヴィーノに出会った。視覚の帝国としてイタリアを偶像化していた当時の僕も、彼の訥々とした語り口には洗練されたダンディズムを感じ、以来暫くイタリア文学に凝って読書を進めていた時期を思い出す。 さて、本書はそんなカルヴィーノによる古典文学案内である。まず冒頭の一章、古典の定義を、そのイメージの箱庭を彷徨うように模索しながら次々と提示してゆく鮮やかな筆致に舌を巻く。 古典という観念に対して躊躇いがちに、それでいて焦燥を匂わせながら続けざまに言葉を紡いでゆくこの仕方、語り方はそのまま彼の古典への、ひいては読書への態度を表明しているようにも思える。 それに続く各作品への個別的な言及は、内容自体に差こそあれ、導かれるのは一つの全体として作用する、精巧なキネオラマを思わせる相互的な読みである。 "古典倶楽部"の人間なら読みながら溜飲が下る箇所も多いだろう。また、古典の森の入り口に佇む人間にとっては暗がりを拓く暖かなランプにもなりうる良書である。 最良の読者は、あらゆる読書を古典として経験する読者なのかもしれない。
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ここで紹介されている作品や解説は日本人には馴染みが薄いと思う。が、それ自体は問題ではない。 最新作のレビューではなくなぜ古典なのか、古典というものをどう捕らえるかが問題なのだ。 たしかに理解しづらくはあるが、カルヴィーノの古典に対する精神に触れられることは、日本においても素晴らし...
ここで紹介されている作品や解説は日本人には馴染みが薄いと思う。が、それ自体は問題ではない。 最新作のレビューではなくなぜ古典なのか、古典というものをどう捕らえるかが問題なのだ。 たしかに理解しづらくはあるが、カルヴィーノの古典に対する精神に触れられることは、日本においても素晴らしい特権である。 彼の気質をなぞりながら読書したいと願ってしまう。 池澤夏樹氏の善きおせっかいなカルヴィーノ擁護論。 それぞれ別個の古典作品が、読み手の中でつながって、あらたな物語を紡ぐ。 これぞ、古典多読の醍醐味! 「なっちゃん、よくぞ言ってくれました!」の拍手喝采である。
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イタロ・カルヴィーノによる古典文学講義。「なぜ古典を読むのか」という問いに論理的に答えてくれる。古典を読む際にまず衝突する最初の壁は理屈から古典を理解しようとするところからだと思う。古典とは理屈ではなく姿勢から読むものであり、そのためにいかに古典を定義すべきかが浮き彫りにされてい...
イタロ・カルヴィーノによる古典文学講義。「なぜ古典を読むのか」という問いに論理的に答えてくれる。古典を読む際にまず衝突する最初の壁は理屈から古典を理解しようとするところからだと思う。古典とは理屈ではなく姿勢から読むものであり、そのためにいかに古典を定義すべきかが浮き彫りにされていくかのような内容が本書に記されている。「古典の読み直し」という課題自体時代の転換期に新しく課されるべきものなのかもしれない。
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イタリアの作家イタロ・カルヴィーノが、文学について雑誌などに書いた文章が死後まとめられたもの。須賀敦子が訳している。須賀敦子が訳している小説ではない本を読んでみたかったのが、この本を読んだ理由の一つなのだけど、もともとのイタリア語の文章がそうだったのだろうけど、須賀敦子自身があとがきで書いているように、ごつごつして読みにくい文章も多かった。 表題作の「なぜ古典を読むのか」に始まり、取り上げられているのは、オデュッセイア、アナバシス、オウィディウス、スタンダール、バルザック、ディケンズ、フロベール、パステルナーク、トルストイ、マーク・トウェイン、ボルヘス、パヴェーゼと多岐に渡る。カルヴィーノの読書量には驚かされる。ものすごい。例えば、プリニウスの「博物誌」について書かれた「天、人間、ゾウ」の章を読むと、カルヴィーノは「博物誌」37巻全部を読んだことがわかる。私は、(プリニウスによると)「人間にもっとも近いのはゾウだからこれを精神的な手本にすればいいという。」などと書かれたこの章をおもしろく感じた。 その他では、「オウィデウスと普遍的なつながり」の章の「イアソンとメデアの物語は、そのまま『マクベス』に用いられる」という部分、「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」の章で、ボルヘスが「私たちにとってもっとも大切なテクスト」であるダンテについてボルヘスが情熱をもって研究しつづけたことに(イタリア人として)感謝を表明したいと述べた部分などが印象に残った。 「なぜ古典を読むのか」の中で、カルヴィーノは古典を読むいろんな理由を述べているが、私の印象に一番残ったのは次の文章である。 「古典がなんの役に立つかといえば、私たちがどういう人間たちであるのか、どこまで来ているのかを知るためなので、そのためには[イタリア人にとっては]イタリアの文学を読むことが必要になる。自分たちを外国の人々とくらべてみるために。また、外国人[の著作]が必要なのは、これをイタリア[のもの]と比べるためだ。」
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カルヴィーノはイタリアきっての知識人。彼の前には偉大なイタリア文学者、作家がいて、彼はそれを担わなければ行けないと自覚していたのか必然とそうなったのか、彼は特異の冷静さを持って文学に向かっているような気がする。その冷静さが、レビューという形でも現れているがしかし、私が知りたいのは...
カルヴィーノはイタリアきっての知識人。彼の前には偉大なイタリア文学者、作家がいて、彼はそれを担わなければ行けないと自覚していたのか必然とそうなったのか、彼は特異の冷静さを持って文学に向かっているような気がする。その冷静さが、レビューという形でも現れているがしかし、私が知りたいのはあなたのことなのだ。他人について語りながら自分について語るような狡猾さが欲しい。紹介など、二の次だ。
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