ロラン・バルト モード論集 の商品レビュー
ロラン・バルトだし〜、ちくま文庫だし〜と手に取ったが、そこいらへんの雑誌に書き捨てたような文章ばかり。鷲田清一の「ちぐはぐな身体」のような深い考察を期待したのは間違いだった。
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第一部を読んで、画期的な名訳と思いきや、第二部の特に「今年はブルーが流行」の論などは、何が書いてるのかほとんど意味ぷーであった。 編訳者あとがきには、「翻訳は、とくに第二部に収めた論について難航をきわめた」とあった。それだけ原文が難しかったということなのである。と言うか、記号学と...
第一部を読んで、画期的な名訳と思いきや、第二部の特に「今年はブルーが流行」の論などは、何が書いてるのかほとんど意味ぷーであった。 編訳者あとがきには、「翻訳は、とくに第二部に収めた論について難航をきわめた」とあった。それだけ原文が難しかったということなのである。と言うか、記号学というのは、かように「手ごわいテクスト」なのである。 それでも、これだけの訳業を成し遂げた編訳者に拍手!
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衣服が真に意味するものになるには、それが人間の言語に担われているときのみである。衣服を考えることは、衣服の中に言語を持ち込むことである。豊かに見える衣服文化は、言語で形作られた文化である。
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例の大著『モードの体系』を周回するアステロイドのような小品群。 前半は本当に軽やかなエッセイ集で、後半は『モードの体系』の草稿みたいな論考。 ロラン・バルトのいつもの軽くしなやかな、機知にみちてエロティックでさえある文章が素晴らしい。 バルトはたとえば「セーターそのもの...
例の大著『モードの体系』を周回するアステロイドのような小品群。 前半は本当に軽やかなエッセイ集で、後半は『モードの体系』の草稿みたいな論考。 ロラン・バルトのいつもの軽くしなやかな、機知にみちてエロティックでさえある文章が素晴らしい。 バルトはたとえば「セーターそのもの」は、モードの記号体系にとっては「指し示されている対象」であって、記号論が繰り広げられるのは その下位に属するさまざまな記号/意味である。 単なる機能的道具としての衣服は意味の次元にはないが、社会的人間は衣服を「意味作用」として活用する。ここにモードが出現する。 この経緯は「音楽」と同様だ。音自体は限りなく多義的であるか、もしくは石ころのように非-意味なのだが、それが人間社会にとりこまれるとき、多用なコードの「意味作用」に巻き込まれる。 衣服のデザイナーも、作曲家も、非-意味なる「もの自体」と、「意味作用の可能性」との境界の位置に立っていることに違いはない。彼らは結局、もの自体=自然に意味付与するだけの存在なのだろうか? しかしこの「意味/記号性」は、やはり社会が規定するラングから借りてきているにすぎないのだろうか?
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