クヮルテット の商品レビュー
精神科医としての彼の社会的な身分が災いして、出版する側も、読み手も、「精神科医として」といふことについて書くやうに求めてゐたからかもしれない。作家であるといふことは知つてゐたが、今までなだいなだ先生の書いてきたもので物語といふものは読んだことがなかつた。 書くことは対話だと述べて...
精神科医としての彼の社会的な身分が災いして、出版する側も、読み手も、「精神科医として」といふことについて書くやうに求めてゐたからかもしれない。作家であるといふことは知つてゐたが、今までなだいなだ先生の書いてきたもので物語といふものは読んだことがなかつた。 書くことは対話だと述べてゐたが、物語においてもそれは変らない。主題、さう呼んで差支へないのであるなら、4つのテーマが置かれる。幸福とは。ひとの罪とは。科学とは。医療とは。それらが重なりあふことで、ひとつの曲を奏でる。 これだけならおそらく、物語といふ形式をとらずとも済んだことだと思ふが、この作品を物語として成り立たせてゐるのは、これら4つの主題を複数の奏者がそれぞれの立場で奏でてゐるところではないかと思ふ。 セロは裁判を眺める見学者。見学者たちは、裁かれる者も裁く者をわからない。ただことばからそれを眺めるだけだ。これが通奏低音となり、他の楽器を導く。メインを奏でる第1バイオリンは、証人として裁判に立つ者。第2バイオリンはそれの対旋律を成す検察官。同時に次のヴィオラを導き取り持つ鑑定医。ともすれば乖離してしまふふたつのパートを取り持つやうなヴィオラは被告。 楽器が異なれば奏でるものがことなるやうに、語るひとが異なれば、主題も同じではない。けれど、違ふ楽器であつてもひとつのハーモニーを奏でることができてしまふのだ。解説では不協和音と述べられてゐたが、不協和音もまた、ひとつの調和だ。それ故の奇妙さなのだ。 もうひとつの光の中から……はカミュの誤解を思はせるやうな物語だと感じた。誰ともわからぬ対話、光の重なりが生み出す奇妙なズレ。観客の女性はクヮルテットとのつながりを思はせる。だとすれば語り手二人と殺人鬼、観客によるもうひとつのクヮルテットか。だがこちらにはとりもつヴィオラもなければそれを担ふ演奏家もゐない。あるのはただただ奏でられる孤独なメロディ。
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