1,800円以上の注文で送料無料

イエスという男 の商品レビュー

3.7

13件のお客様レビュー

  1. 5つ

    2

  2. 4つ

    4

  3. 3つ

    5

  4. 2つ

    0

  5. 1つ

    0

レビューを投稿

2025/02/02

岸田秀「一神教VS多神教」の中で「右の頬を〜」の解釈を「としすました愛の倫理などというものではない。これは寛容などではなく、底意地の悪い忍従の表情である。」と紹介されていたのがオモロかったので借りてきました。 結果私にはちょっと重荷でした。  長いの。 あとムズイの。 著者は...

岸田秀「一神教VS多神教」の中で「右の頬を〜」の解釈を「としすました愛の倫理などというものではない。これは寛容などではなく、底意地の悪い忍従の表情である。」と紹介されていたのがオモロかったので借りてきました。 結果私にはちょっと重荷でした。  長いの。 あとムズイの。 著者はウィキによると「神の存在を信じないクリスチャン」だそうで、約400ページギチギチに展開される新約聖書解説からも信条は迸ってます。 てか東大宗教学だそうですがホリエモンの先輩ですかね。 私があと5倍くらい聖書(キリスト教)に対して知識があればもっと楽しめたかも知れませんが、著者が他の著名な宗教学者や聖書研究者の見解を「根拠がない」「時代背景を何も分かってない」「キリスト教について無知である」などと言い捨てる反面、自身の見解を自信たっぷりに展開されると「え、でもこれも同じように根拠なくない???」と動揺しちゃいますね。「これは後付け」「これはイエスの言葉」「これは創作」と、熱意をもって書かれれば書かれるほどに「そりゃ妄想の土台の上に生身の人間の人生を振りかけたのだからねぇ」っていう気になります。 著者の執着が炸裂すればするほどに(たとえそれが的を射たものであっても)「まぁまぁ、ただの世迷言の寄せ集めなんだから落ち着いて。」と、ちと冷める。 小説やドラマやアニメの二次創作や勝手な解釈をしている人が入り込み過ぎて見てて引いちゃう、的な。とでも言いましょうか。 ただ「神を信じていない」とされる著者が頻繁に見せる真顔というか、意識が2000年前から瞬時に戻ってきて急にまともなことを言い出すのが散りばめられていて、読んでいて退屈はしません。 ただ長くてしつこいのも事実。 400ページの中で最も好きなフレーズ 第3位(329ページ) (欲情を満たすために〜)「女を見れば心のときめくのを抑えることが出来ない者にしか言えないセリフだ。」 第2位(134ページ) (右の頬〜)「これは寛容ではなく底意地の悪い忍従の表情である。」 第1位(171ページ)  抑圧する権力がある限り、イエスのような男はいつの世にも必ずうまれくる。イエスの思い出など消え去っていいのだ。もしもイエスのような男がもはや生まれ出る必要もない、良い世の中になってくれればそれでいい。そうすればイエスについて語る必要もなくなる。 音楽や美術など、良いこともそれはそれはたくさんあるんですけど、いかんせん人を殺し過ぎなんですよね。昔も今も。 菊池秀じゃないですが、一神教を信奉している時点で「寛容」を唱えるのは無理筋でしょ。

Posted byブクログ

2021/01/24

いや~、難しかった。 宗教を知るうえで、史実や歴史的背景を正確に知る必要があるんだな…。 幼いころに受洗していわゆるミッションスクールにどっぷりつかって成長してしまった自分に、どう折り合いをつけたものか…とすっきるというより、悩みを深めた1冊だった。 2020.11.29

Posted byブクログ

2020/09/04

キリスト教をある程度勉強して、自分なりの考えを固めた上で読むべきものかと思います。その方がおそらくずっと面白いです。生半可な信仰ではグラッグラになります。怒りや失望も芽生えるでしょう。逆にキリスト教を知識として知るためとか、ただ批判の根拠として読むというのも違う気がします。これで...

キリスト教をある程度勉強して、自分なりの考えを固めた上で読むべきものかと思います。その方がおそらくずっと面白いです。生半可な信仰ではグラッグラになります。怒りや失望も芽生えるでしょう。逆にキリスト教を知識として知るためとか、ただ批判の根拠として読むというのも違う気がします。これでとりあえず目からウロコをキレイさっぱり落として、ニュートラルな気持でもう一度より深く聖書を読んでみよう、と思っています。

Posted byブクログ

2019/03/23

イエス・キリストではなく実在したナザレのイエスがどのような人物であったかを書いた本。この人の書くイエスは律法学者に対して「ゴチャゴチャうるせえ、黙れ」と言いそう。理屈をこね回す人を嫌い、宗教に対して皮肉的な態度をとる人物だ。仲良くなれそう。 タイトルと厚みからもっと固い感じの本...

イエス・キリストではなく実在したナザレのイエスがどのような人物であったかを書いた本。この人の書くイエスは律法学者に対して「ゴチャゴチャうるせえ、黙れ」と言いそう。理屈をこね回す人を嫌い、宗教に対して皮肉的な態度をとる人物だ。仲良くなれそう。 タイトルと厚みからもっと固い感じの本かと思っていたが、そうではなかった。なんというかネット記事にありそうな感じ。初版のあとがきが書かれたのは1980年だけれども。 それにしてもこの著者はずいぶんと好戦的であるように思える。わざわざイエスについて語った人を名指ししてはこき下ろすのだから。このような内容を本に書けるのは、そうとう自分に自信が無いとできない。

Posted byブクログ

2015/02/17

微細に、無慈悲に張り巡らされた宗教というイデオロギーにイエスという男は挑み続けたのか。テキスト・クリティークということを、本書ほど痛感した書物はなかなかない。奇跡に関する記述も興味深い。

Posted byブクログ

2014/05/21

2014年5月17日に行われた、第15回ビブリオバトルin生駒で発表された本です。テーマは「出会い」。

Posted byブクログ

2013/12/29
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

■『イエスという男』 田川建三著 作品社 【後編 イエス路程】  日本においてのイエス研究の中で、一般にもそれでも受け入れらているといえるものの筆頭は「史的イエス」研究である。「史的イエス」とは何かというと、いわゆる人間イエスに関わることである。信仰の対象として、十字架において人類に赦しを与える、神の子イエスではなくて、我々と同じように歴史の片隅に抗うことができず生まれ、33年の人生を歩んだ、人間としてのイエスはどのようであったのか、その姿に迫っていくのが「史的イエス」研究という分野である。そんな日本の史的イエス研究者の中で、おそらく最も著名で信頼を受けているのがこの田川建三だろうと思われる。同じく日本の新約聖書学者である荒井献も著名であるが、二人の仲が良くないからか、キリスト者らしさが残るからか、荒井においては田川ほど、信頼を勝ち得ていないように思う。  荒井を「キリスト者らしさが残る」と言ったのは、田川はそうではないからである。田川は唯物論者であるとは言えないまでも、不可知論者であることは間違いない。不可知論とは、理性や経験を越えるものは絶対に知りえない、ということを主張する者たちのことである。田川は宗教は信じない。信仰の対象としてのイエスも信じない。しかし人間イエスの虜である。  この著作では、2000年前のパレスチナにおいて、生きて死んだ「イエスという男」の真実に、福音書の批判的研究と、歴史的考察を重ねながら迫っている。そう言う研究の結論として、イエスを「時代の反逆者」と位置づける。イエスは時代に反逆した。イスラエルの政治的状況、律法に対する理解の本質、人間的道徳のあり方。時代において不正や不義と壮絶に闘い、時代に抗ったため壮絶な死を迎えた。自分の死を予感しながらも、その生き方を貫いたイエスの姿に強烈な魅力とシンパシーを感じ、その情熱のもとに書き下ろされたのがこの著である。  史的イエス研究の立場では、イエスが当時自らをメシヤだと自覚してはいなかったという理解が一般的である。メシヤであるというのは、後の弟子たちが祭り上げた結果の呼称であるという。福音書の記述も歴史的な真実を述べているものと、信徒たちの信仰を介しての願望を述べているものとに分かれるのだ、というのがその立場である。私たちから見ても、それはその通りだと思う。反面それだけが真実であるとは言えないと思う。  田川の研究には相当の誠実さを感じる。不可知論者として、論理的積み重ねの上にも、イエスの生き方を理解できるし、人間としての魅力を感じうる結論に至ったのは功績であると思う。しかしそれはイエスの生き様の人間としての誠実さを汲み取っただけであって、やはり宗教や信仰においての超越的な姿がなかったかというと、その証明にも足りないのだ。不可知論はあくまでも理性面においての不可知をいうことはできても、人間が知りえないことの不在を証明することもできないわけである。日本において、田川が支持されやすいのも、その研究の誠実さによる魅力もあるけれども、キリスト教の枠とは全く違う仕方で描かれた人間イエスに、日本人の理解が及んだからであって、真偽においての帰着とはまた別の問題である。  個人的には、20代半ばに非常に関心を持った史的イエス研究であり、この書でもあったけれど、信仰における実存の深まった今においては、頭の片隅に追いやられるぐらいの重要性でしかない。一度読む価値はあると思う。そしてその内容はなかなか魅力的である。しかしそれほど影響を受けることは難しい。私にとってはそのへんの位置にある。 <イエス伝関連資料> ルドルフ・ブルトマン 『イエス』 田川建三 『イエスという男』 八木誠一 『イエス』 清水書院・人と思想シリーズ 遠藤周作 『イエスの生涯』 フランソワ・モーリヤック 『イエスの生涯』 など

Posted byブクログ

2013/03/10

特にキリスト教に詳しくなくても、イエスと言えばどんな男か、たいていの人が説明できそうな気がする。娯楽映画に一番多く登場する宗教者である。非暴力を貫き、己の罪を悔い改めることを説く、愛の宗教の創始者。しかし、その容貌はともかく、性格や思想の方は、福音書の記述をもとに作りあげられた像...

特にキリスト教に詳しくなくても、イエスと言えばどんな男か、たいていの人が説明できそうな気がする。娯楽映画に一番多く登場する宗教者である。非暴力を貫き、己の罪を悔い改めることを説く、愛の宗教の創始者。しかし、その容貌はともかく、性格や思想の方は、福音書の記述をもとに作りあげられた像を真に受けると、とんだまちがいをしてしまいそうだ。 知っての通り、福音書というのは、イエスの弟子たちが、近くにいて見聞きした師の言葉を後に思い出して書き記したものである(本当のところは、弟子の名を借りて複数の記述者によって書かれたものと考えられる)。マタイ、マルコ、ルカ、それにヨハネの四つの福音書を数えるが、ヨハネのものは別にして考えるのが通例だ。しかし、先の三人の福音書にしたところが、三者三様、それぞれ記述者の思惑が入り込み、イエスその人の言動には異同がある。 キリスト教に限ったわけではない。すぐれて独創的な思想家やそれまでにない行動パターンをとる人間が現れると、普通の人間は、まず驚き、拒否し、やがて、受け容れるといった行動様式をとるものだ。そして、その受容のレベルが、受けとる側によって異なる。だから、いくら身近にいた弟子でも、弟子の生育歴や教養その他によって、師の言葉はフィルターを通して受けとられることになる。ましてや、教団という大所帯を維持してゆくとなれば、そこには、俗世間との妥協が入ってくる。変質は避けられない。 田川がここで明らかにしようとしているのは、当時のガリラヤで大工をしていたイエスという男の真の姿である。ユダヤ民族にとってユダヤ教というのは、単に宗教というにとどまらず、政治であり、法である。すべては律法によって厳しく律されていた。しかし、現実的にはパリサイ派のような教条主義的な人々もいれば、戒律を無視し、世俗的な利益に走る宗教者たちもいて、一般の人々にとっては決して納得のいく世界ではなかった。 おまけに当時世界はローマ帝国によって支配されていた。ローマの支配とユダヤ教による支配に対する「逆説的反抗」者としてのイエスというのが、田川の描き出してみせるイエス像である。有名な「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」というのも、非暴力というより、「どうせ打つならこちらも打ったらどうだ」とういう反抗的な身振りであったろうというのだから、世間に流布するイエス像やキリスト教という宗教の既成概念は木っ端微塵になる。 もちろん、勝手な解釈ではない。当時の歴史的状況や資料に残されたイエスの言葉を検討した結果浮かび上がるのが、「逆説的な発言に見られる鋭い批判、相手の問いに答えることを拒否し、お前が自分でやればいいだろうとつき放す冷たさ、底の底までつき入ってくるようないやらしい皮肉、などに見られるおそろしく醒めた目」の持ち主だ。 しかし、その醒めた眼を持つ男の中には「一見ひどく幼稚で迷信的な宗教的熱狂」が同居していた。それが、イエスを追いつめ、ついには死に至らしめたのである。田川がこの本を書くことで解き明かしたかったのは、なぜ、ひとりの男の中に相手を徹底的に突き放す醒めた目と幼稚な宗教的熱狂が同居し得たのかという疑問である。答えは出たのだろうか。 あとがきに「十字架に架けて殺されたこの男のものすごい生を描きうるためには、自分もそれに対抗しうるだけの生の質を生きていないといけない」と著者は書いている。すぐれた聖書学者だが、既成のキリスト教の護教論者が卒倒しそうなほど過激な言動を繰り返す著者には敵も多い。逆境の中で、自分の仕事を続けることの意味を探るというのがこの本を書くもう一つの目的であったろう。答えはその選びとった生の中にこそあるのではなかろうか。

Posted byブクログ

2012/05/21

宗教的な闘争ではなく、権力・権威・道徳一般につきまとう偽善の告発や不満の発露としてイエスを捉える。 個人として、反発としてのイエス。 ドラマとして、あるいは聖書の解釈として非常に面白かった。教義やヒューマニズムの偽善的側面には鈍くならないでいたい、と紋切り型ながら思う。 今までの...

宗教的な闘争ではなく、権力・権威・道徳一般につきまとう偽善の告発や不満の発露としてイエスを捉える。 個人として、反発としてのイエス。 ドラマとして、あるいは聖書の解釈として非常に面白かった。教義やヒューマニズムの偽善的側面には鈍くならないでいたい、と紋切り型ながら思う。 今までの史実を批判している割には「〜と考えるのは大げさにすぎる」「は想像に難くない」といった類推が多い気もして、それをこちらは判別しがたい感じがある。

Posted byブクログ

2011/09/04
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

現代キリスト教に対して批判的なキリスト者、、という趣。 「イエスはキリスト教ではなく歴史の先駆者だった」という有名な台詞、文献から紐解かれる歴史。。 牧師さんから薦められて読んだ本なのだが、キリスト教理解もないまま無防備に読むには刺激が強い。 誤解を恐れずに書けば、ある種、チェ・ゲバラのような激しく真っ直ぐな存在としてイエスを見る、とても貴重な経験。

Posted byブクログ