司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅(7) の商品レビュー
「坂の上の雲」は大作だ。克明に調べ事実に基づいて述べ、歴史学者のようだ。ただ人物を見る好悪が激しい。そのまま文中に晒され、それが小説としての面白味になったりする。子規が大好きだったことも本書でわかる。先日CDで「文章日本語の成立」という講演の録音を聴いた。内容は本著でもふれられて...
「坂の上の雲」は大作だ。克明に調べ事実に基づいて述べ、歴史学者のようだ。ただ人物を見る好悪が激しい。そのまま文中に晒され、それが小説としての面白味になったりする。子規が大好きだったことも本書でわかる。先日CDで「文章日本語の成立」という講演の録音を聴いた。内容は本著でもふれられている。2023.7.8
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司馬遼太郎の『歴史のなかの邂逅7』(2007) には、歴史上の様々な人物との出会いが記されている。例えば、次のような興味深い話を載せている。 薩長土肥の士族は、戊辰戦争を命がけで戦って勝利した。ところが、ほとんどが何の恩賞も得ることなく国へ帰され、その後、士族の特権のすべてを...
司馬遼太郎の『歴史のなかの邂逅7』(2007) には、歴史上の様々な人物との出会いが記されている。例えば、次のような興味深い話を載せている。 薩長土肥の士族は、戊辰戦争を命がけで戦って勝利した。ところが、ほとんどが何の恩賞も得ることなく国へ帰され、その後、士族の特権のすべてを奪われた。一方、一部の連中はいつのまにか日本の支配者となり、大豪邸に住み美女を集めて贅沢を楽しんだ。1876年に始まり1877年の西南戦争で終結した不平士族の反乱は必然の結果であった。それを司馬は次のように記している。 「われわれ後世の者には視界が遠すぎて、わかりにくなっていることがある。維新で、薩摩藩が天下をとったためにその藩士のうちの何パーセントかのひとびと (むろん大久保をふくむ) が東京にとどまり、太政官の大官になったという奇妙さについてである。この現象は、藩に残った (藩は継続している) ひとびとにとって、狐につままれたようなものであり、やがては太政官 (具体的には大久保) が威令を発するようになってからは、大久保ら官員たちを裏切り者とみたのは、感情的にも封建的条理からみても、藩主に対する逆臣としか見えなかったであろうということである。この反感派の代表が、島津久光であった。
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第七巻は「坂の上の雲」に登場する人物評を集めたもの。「坂の上の雲」のあとがきも含まれており、同書を既に読んでいたので冗長否めない。 ただ、これまで読んだことのない正岡子規評もあり、その点では一読の価値あり。森寅雄など、あまり知られていない人物を取り上げるところが司馬遼太郎らしい。...
第七巻は「坂の上の雲」に登場する人物評を集めたもの。「坂の上の雲」のあとがきも含まれており、同書を既に読んでいたので冗長否めない。 ただ、これまで読んだことのない正岡子規評もあり、その点では一読の価値あり。森寅雄など、あまり知られていない人物を取り上げるところが司馬遼太郎らしい。 以下引用 (正岡子規) ・私どもが夏目漱石と正岡子規、もしくは森鴎外を所有していることの大きさは、その文学より以前に、かれらが明治三十年代においてすでにたれもが参加できる文章日本語を創造したことである。 (板垣退助) ・もし左右の政治的総合者として板垣が存在しなかったならば、明治初期の専制政権が、自由民権運動の弾圧をどれだけ血なまぐさくやったか、想像するだけでもおそろしいほどである。自由民権運動は、かつて参議であった板垣がときに統率し、ときに庇護者にまわることによって、権力をして相当な手控えさせたということは、当然言えるように思える。
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