天智と持統 の商品レビュー
「武の人」であるとともに「文の人」でもあるという、われわれによく知られている天智天皇像が、持統天皇によってつくられたという著者の主張が語られている本です。 本書の前半では、『日本書紀』と『鎌足伝』にえがかれた天智天皇像について、批判的な検討がおこなわれており、あらためてわれわれ...
「武の人」であるとともに「文の人」でもあるという、われわれによく知られている天智天皇像が、持統天皇によってつくられたという著者の主張が語られている本です。 本書の前半では、『日本書紀』と『鎌足伝』にえがかれた天智天皇像について、批判的な検討がおこなわれており、あらためてわれわれの知っている天智天皇のイメージに対する疑問を提示するとともに、そうしたイメージがだれによってつくられたのかということを明らかにする必要があると主張します。 後半では、持統天皇の生涯をたどるかたちで、天智天皇の事跡がどのようなしかたで継承されていったのかということが論じられます。持統天皇は、夫である天武天皇から政治の手法を学びつつ、永遠の生命力をもつ「天皇」のありかたが代々継承されていくものとして規定することを目的として、天智天皇のイメージをつくりあげたとされています。 とくに前半は、従来の天智天皇にかんするイメージの根拠が薄弱であることを主張しようとする著者のもくろみが先行していて、やや性急な議論になってしまっている印象があります。
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買ったことを後悔した。 天智天皇像に2つの異なるものがあり、それぞれ誰が作ったかを論考する。 ただしロジックが呆れるぐらい杜撰で読んでいてイライラする。 典拠は日本書紀。 しかし資料批判的なものはなく鵜呑み。
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なぜだろう、以前はあんなに新鮮だった遠山先生の本が・・・ステレオタイプに見える この本は自分のものだから、何度でも理解できるまで読めるぜ!
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学説の細かい部分なので、面白くはない。ただ私はこの時代の歴史小説を読んでいるので、小説がどの程度史実に基づいているのかを確認する意味で有益だった。天皇は神だ、としたのは持統天皇。万葉集にある「大王は神にしませば・・・」という歌のうち、持統天皇の御用歌人であった柿本人麻呂の歌は、「天皇は神そのものであるので」と歌われている。天武天皇の時代までは「天皇は神の末裔」であったが、持統天皇は「神そのものである」と言っている。続日本書紀で持統天皇はアマテラス大神から直接権力を授かった初代天皇である、という書き方。
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いわゆる大化の改新の時代は、学校で習ったことから変更された史実も少なくない。本書は、さらに丁寧な検証によって新たな歴史認識を提示している。謎も多い時代だけに読んでいて大変おもしろい。そして、何よりも丁寧なルビふりなど、我々のよな素人でも読みやすくつくられている。
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なかなか興味深い本だった。著者は「天武と持統」でないのは意外なのでは、と「序」で書いているが、私はやはり、持統はあくまで「天智の娘」だったと思うので意外性はなかった。ただ、従来描かれてきた天智像の矛盾などを解き明かすプロセスは面白い。
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メモ 持統天皇は夫の天武天皇より、父の天智天皇とのつながりを求めた。 天智天皇像は「武」と「文」の2つ。その成立を明らかにする。 ①『日本書紀』は天武、持統の命で編纂。作られた天智天皇像。天智は蘇我氏と縁が深い。大化の改新がなくても皇位が回ってきたのでは?天智を王朝の始祖(正確には王政復古)とするために蘇我氏が皇室に取って代わろうとしたとされる。大化の改新以降、天智がかかわったことは少ない。天智と孝徳天皇、蘇我倉山田石川麻呂との対立? 近江遷都以降、天智朝が衰退。天武は天智、大友皇子と争ったのではなく、近江朝の重臣らのせい。天智は武断的に描かれる。 →持統天皇が編纂。 ②『鎌足伝』 藤原仲麻呂(鎌足の曾孫)が編纂。創作のエピソードもみられる。中国の故事が多く引用。自らを鎌足、光明皇后を皇極天皇、橘奈良麻呂を蘇我入鹿、淳仁天皇を山背大兄王、舎人親王を聖徳太子になぞらえる。 酒に酔った大海人皇子(天武)が暴れたので、天智が殺そうとしたのを鎌足が諌めた(天智兄弟の対立の記載はこれのみ)。 鎌足の子孫である仲麻呂の正当性と天智・天武の子孫に信頼されていると描く。 大化の改新や白村江の戦いは触れていない。改革は孝徳天皇ではなく、天智が鎌足とともに行ったものであり、「律令」も制定したとする。法や制度の制定者としての天智。天智は文の人として描かれる。 →鎌足伝の天智像も持統の影響。 ③持統天皇の生涯 蘇我氏の血をひき近親者に天皇即位者が多い。生年は不詳。名前は天照を連想させる。うののさららは河内国の地名でそこに住む渡来系のものが乳母を務めた。しかし、即位は想定されていなかった。他の3姉妹とともに叔父の天武と結婚。特別な血統を保つため?大海人も即位は想定されていなかった。名前から大海人は隷属性、中大兄は即位を前提? 壬申の乱は中国の王朝交代になぞらえ、天智朝の奸臣を取り除き、正義と秩序を回復するという名分。天武は大王から天皇へ(不老不死の意。当初は一代限り)、持統は初代皇后に。持統は吉野にて神聖性を身につけ、自ら斉明(女帝)、天智の後継に位置づけた。天皇は単なる神の子孫ではなく「神」、「初代天皇」に。天武の死後時間をおいて即位。文武天皇に譲位するとき、天武を通り越して天照などの神から、また斉明・天智から権力を継承したとする。 持統が天照、アメノオシホミミが草壁、ホノニニギが文武、タクハタチヂヒメが元明天皇、天智がタカミムスヒ。文武の権威のために天智陵を藤原京の大極殿の基軸に建設(北極星・天帝)。天智の権威を絶対化することは天武の相対化になった。晩年には曾孫聖武天皇のために平城京を構想?やがて死後に大宝律令が完成するが、それも天智のアイデアとする。 ④まとめ 文と武の2つの天智像は持統の前半生の正当化と後半生の課題遂行のプロセス。7世紀史は持統天皇に作られた歴史。
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