調査されるという迷惑 フィールドに出る前に読んでおく本 の商品レビュー
フィールドワークで「調査される側」から見た文化人類学・民俗学の活動について。 権力論とかそういう話かと思ったら、学者が勝手に家に入ってきたとか民具を借りて返さないとか、流石に現代の研究倫理では克服されていそうな当然そらアカンでしょという、文字通り「迷惑」についての教本だった。 ...
フィールドワークで「調査される側」から見た文化人類学・民俗学の活動について。 権力論とかそういう話かと思ったら、学者が勝手に家に入ってきたとか民具を借りて返さないとか、流石に現代の研究倫理では克服されていそうな当然そらアカンでしょという、文字通り「迷惑」についての教本だった。 宮本常一の言う『調査というものは地元のためにはならいで、かえって、中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い。』に示される「中央」と「地元」の構造は、もはやアカデミアの世界だけではなく普通に生きる我々も陥りかねない問題とも思える。
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宮本常一の文章は第1章のみ。あとはそれを受けた安渓さんの実体験や聞き書き、アンケートのまとめなどのわりと雑多な文章。も少し整理してもよいようには思う。 調査する側の傲慢、される側の迷惑が具体例を挙げてたくさん書いてある。借りパクは論外として、研究結果を還元しないなどの不義理を重ね...
宮本常一の文章は第1章のみ。あとはそれを受けた安渓さんの実体験や聞き書き、アンケートのまとめなどのわりと雑多な文章。も少し整理してもよいようには思う。 調査する側の傲慢、される側の迷惑が具体例を挙げてたくさん書いてある。借りパクは論外として、研究結果を還元しないなどの不義理を重ねていて、そりゃ学者が嫌われるわけだという話ばかり。良かれと思って発表した場合でも、地元の人を住みづらくしていたり、文化の手本になって固定化してしまったり、難しそうだ。無色透明ではいられない。 フィールドワーク調査をする人は少ないとして、InstagramやYouTubeにまで拡げて考えると、もはや調査という目的すらなく、責任も何もないまま、表示数を稼ぐために似たようなことは爆発的に増えているんだろうなと思う。 関与するからには、人間として誠実と友情を貫く覚悟が求められるが、安渓さんは調査対象の地域で米作りをして米屋になってしまっていたのはすごい。いいことなのか評価も難しい。
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宮本常一先生の文章は名文だと思った。 内容云々置いておいてこの文を美しいと思うなら、信憑性はこの文の価値の全てではないんだなと思うし、 宮本常一の本を読んで受ける印象がじんとくるものであれば、 それでいいのかもと思った。 ただ、内容については、学者って嫌だなと思ってみたり。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
「山に生きる人々」などで知られる、宮本常一氏によって書かれた文章は第一章のみになる。 だがそれ以降も、安渓遊地氏により、宮本氏との関わりで教わったこと、また安渓氏自身がフィールドワークを行う中でぶち当たった「調査されるという迷惑」が記されてある。安渓氏そのひとが投げかけられたり耳にしたりしたことが、おおよそではあるけれどハッキリ書かれて、なるほどこれは迷惑にちがいない、と、フィールドワークの難しさに天を仰ぐ思いになった。 考えるのは、私たち(といっても私もいちおう「地方のひと」ではあるのだが)が読みものとして、またそれを媒介したマンガなり小説なりで受け取った土地の情報を、鵜呑みにしたままにその土地の人びとのことを決めつける危うさだ。 本文にても示されているが、それはイメージを固定して、ほんとうに昔から伝わってある物語/習俗を歪めてしまいかねないし、その人びとの根っこになる部分を引き抜いて空っぽにする、そういう行為とごく地続きではないだろうか。私はそれを危惧する。
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記者としても参考になるかと思い読んだ。 やはり「他の誰かの話を飯の種にしている」という後ろめたさを片時も忘れず、取材相手に敬愛の念を持ち続けるしかないのではと思う。
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ミッドサマー(映画)を観て、フィールドワークについて少し勉強した方が良いと思って読んだ。 もう少しハウツー的な内容かと思ったら、本当に迷惑した人の談話がたくさん書いてあった。 そもそも「調べられる」という出来事があるだけで地元には影響を与えてしまうわけなので、民俗学というのは因果...
ミッドサマー(映画)を観て、フィールドワークについて少し勉強した方が良いと思って読んだ。 もう少しハウツー的な内容かと思ったら、本当に迷惑した人の談話がたくさん書いてあった。 そもそも「調べられる」という出来事があるだけで地元には影響を与えてしまうわけなので、民俗学というのは因果な学問なのだなと。 あと借りた資料を返さないのは絶対だめだと思う。
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宮本常一のエッセイ「調査被害―される側のさまざまな迷惑」を核に、フィールドワークにおける調査被害についての本。一口に調査被害といってもその実態は多様で、調査する側の高圧的だったり、自説への強引な誘導といったものから、資料の借りパクやあからさまな窃盗、さらには調査が好評されることに...
宮本常一のエッセイ「調査被害―される側のさまざまな迷惑」を核に、フィールドワークにおける調査被害についての本。一口に調査被害といってもその実態は多様で、調査する側の高圧的だったり、自説への強引な誘導といったものから、資料の借りパクやあからさまな窃盗、さらには調査が好評されることによる風評被害や、コミュニティ間の軋轢の原因となったりもする。 明らかな犯罪や調査者の人間性に由来するものは論外いしても、難しいのは正当な研究成果そのものが調査対象の不利益につながる場合もあるということで(本の中でもある集落の特性が被差別部落につながるものであることが判り結果公表できなかったケースが紹介されている)、公と私のモラルの線引が問われるところだろう。
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【琉球大学附属図書館OPACリンク】 https://opac.lib.u-ryukyu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BA85410285
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地域に出て働く可能性のある身としては、言葉のひとつひとつが重かった。 地域住民と一体になる覚悟とそれができる体力気力人格が必要で、深入りしたならそれ相応の責任をとらなけばならない。自分の人生も巻き込むことになるから、自分の立場を良くわきまえなさいと言っていると思った。 調査して...
地域に出て働く可能性のある身としては、言葉のひとつひとつが重かった。 地域住民と一体になる覚悟とそれができる体力気力人格が必要で、深入りしたならそれ相応の責任をとらなけばならない。自分の人生も巻き込むことになるから、自分の立場を良くわきまえなさいと言っていると思った。 調査して報告がまとまったのなら、世に出す前に地域住民に添削をお願いし許可を得る必要がある。研究結果がでたなら、成果をわかりやすくまとめて地域住民に報告する。成果をお返しする。借りたものは返す。約束は守る。 でもこれらのことをやったとしても、調査する側がされる側へ何かを「還元する」構造や姿勢は果たして正しいありかたなのか?と問うている。 種をまくのは簡単だけど、それを収穫するのは大変で、耕作によって荒れた土地をもとに戻すのはもっと大変、という言葉が分かりやすい例えだった。
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人文科学において「フィールド」と言われると,民俗学や人類学が思い浮かぶかもしれない。 実際,宮本常一は民俗学者であるし,安渓遊地も人類学者・地域研究者であり,その調査経験にもとづく調査地被害について報告している。 調査地被害とは「調査される側に生じている様々な迷惑・被害の総称...
人文科学において「フィールド」と言われると,民俗学や人類学が思い浮かぶかもしれない。 実際,宮本常一は民俗学者であるし,安渓遊地も人類学者・地域研究者であり,その調査経験にもとづく調査地被害について報告している。 調査地被害とは「調査される側に生じている様々な迷惑・被害の総称」である。たとえば,現地の民族調査というので資料を借しだしたらそのまま返却されなかったとか,調査者が横柄な態度で振る舞うとか,調査に協力したけれど結果の報告がなく何のために協力したのはわからないままであるとか...その例は多数ある。すなわち,「調査」という大義名分(?)のもとで起こる調査される側にとっての迷惑・被害である。もちろん加害者は調査者である。 調査地被害をこのように定義すると,話は民俗学や人類学だけのことではないことがわかる。「調査」と名のつくもの(ジャーナリズムも含めて)はすべて調査地被害の潜在的加害者でありうる。本書はその事実を端的に突きつけてくる。 「調査結果を協力者に適切に報告できていたであろうか?」 「協力者にとって何の意味がある調査だったのだろうか?」 「協力者にとってというよりも,調査者自身のためのものになっていないだろうか?」 「調査というものは地元のためにはならないで,かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く,しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い」(p.34)と宮本は指摘する。はたして自分の調査はそうなっていなかっただろうか。 心理学をしていると「介入」という話がよくでてくる。しかし,「介入」でさえ協力者のためになっていない可能性だってある。「自立」を支援するために介入したことによって,かえって「自立」できなくなることだってある。「介入」すればそれが即座に調査結果の還元になるわけではないし,協力者のためになるわけでもない。(そういう意味で,松井豊『惨事ストレスとは何か』は介入の在り方を考えさせてくれる良書である) 大学で心理学を教えていると,研究法や調査法を教える。もちろん,研究にまつわる倫理的問題として「調査が迷惑であること」も伝える。しかし,「研究法や調査法を教える」ということは,「調査することを進める/勧める」ことと表裏一体であり,はたして本当に「調査が迷惑であること」を伝えきれているのだろうか。伝えるべきは「調査しないこと」あるいは「調査しない調査法/研究法」であるのかもしれない。 本書を読んでわたしは調査するのが恐くなった。あいにくの事情で今後の調査の予定は白紙状態であるが,その事情がなくなったとして,はたして本当に調査してもいいのだろうか。調査できるのだろうか。 少なくともしばらくは「調査」なんてできない。
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