田中角栄の昭和 の商品レビュー
田中さんは自分の軍隊体験を国名に話していないし、書いてもない。戦争なんかで死ねるか、と思っていた田中は決して日本を軍国主義にしない、それだけは断言できる。 日本の首相でもっとも対米貢献したのは田中角栄。日本研究のためにアメリカの大学に奨学金を出した。いずれ彼らが田中を評価するだろ...
田中さんは自分の軍隊体験を国名に話していないし、書いてもない。戦争なんかで死ねるか、と思っていた田中は決して日本を軍国主義にしない、それだけは断言できる。 日本の首相でもっとも対米貢献したのは田中角栄。日本研究のためにアメリカの大学に奨学金を出した。いずれ彼らが田中を評価するだろう。 田中は大日本帝国が崩壊したという虚脱感もなければ、国家の行く末を案じるという思想的、鉄学的な悩みも持っていなかった。自らの利益に忠実であるという確固とした信念だけをもって、田中は生きていた。 田中ですら、最初の選挙では落選している。 田中の同期は中曽根、鈴木善幸。 田中は国を動かす要ともいえる大蔵省の人脈図を池田を通して、常に確認していたことになる。田中は官僚の不得手を理解していた。それは言葉の使い方が下手ということ。田中は10代半ばから社会に出て辛酸をなめていたがゆえに、田中が言葉を武器として用いていくのはそのことを自覚していたから。 田中は、権力よくに加えて金銭よくが人間そのものの弱点になるということをよく理解していた。 田中角栄という人はよくも悪くも、戦後日本を体現したシンボル的存在だった。田中の成金的成功は、戦後日本の成金的成功の反映であった。 国民の欲望そのものを田中は代弁していた。信念や理念より目に見え手にとることのできるカネやモノに新らを寄せる国民の心理的、文化的レベルを田中は正直に私たちに見せつけた。
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庶民宰相として大衆の圧倒的な人気を背景に総理大臣に就任した田中角栄。日中国交回復へのイニシアチブをとる等、就任当初は大きな業績を残したが、結局はロッキード事件・金権問題を理由に首相を辞任。その後も、政界に隠然たる影響力を持ち続けたが、二度と表舞台には登場しないまま、失意のまま死亡...
庶民宰相として大衆の圧倒的な人気を背景に総理大臣に就任した田中角栄。日中国交回復へのイニシアチブをとる等、就任当初は大きな業績を残したが、結局はロッキード事件・金権問題を理由に首相を辞任。その後も、政界に隠然たる影響力を持ち続けたが、二度と表舞台には登場しないまま、失意のまま死亡。田中角栄が首相になったのは1972年。もちろん記憶には残っているが、まだほとんど子供だったので、どういう登場の仕方をしたか、等の詳細はほとんど覚えていない。失脚に至るその後の動きも、詳細には覚えていない。今回、あらためて本で読んでみて分かったのは、田中角栄の表舞台での全盛期は、首相になるまで、あるいは、首相になった直後までであり、その後は、本当に坂道をころがり落ちるように大衆的な人気を失っていったということだ。何を意味しているかというと、結局、田中角栄という人物は、有能な実業家・有能なフィクサーであったかもしれないけれども、政治家としては有能ではなかった、ということではないだろうか。
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