倫理と無限 の商品レビュー
知のモノローグ的全体性に対する他者性、倫理は全体性からではなく他者性から導かれる。レヴィナスの思想の核となる部分が、レヴィナスの口から繰り返し語り直されるのを、じっくり読むことができる。洗練された宗教問答集に似た味わいがあるが、ハイデガーの思想を理解する助けにもなる。
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対話形式で自分の考えていることについて著書で扱ったことについて述べている。話なので叙述的なよじれのようなものはないけどだからといって易しい内容というわけでもない。とはいえ、レヴィナスの伝えたい感じには救いや可能性のようなものを見出そうとする格闘があり、もう少し耳を傾けてみようなと...
対話形式で自分の考えていることについて著書で扱ったことについて述べている。話なので叙述的なよじれのようなものはないけどだからといって易しい内容というわけでもない。とはいえ、レヴィナスの伝えたい感じには救いや可能性のようなものを見出そうとする格闘があり、もう少し耳を傾けてみようなと思わせるだけの印象は持てた。
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レヴィナスは現代思想のただ一人のモラリスト。倫理とは第一哲学、そこから形而上学における他の枝がわかれて意味を持つようになる。「正義について」の問いによって存在が引き裂かれ、人間が存在するとは別の仕方で、また世界への超越として打ち立てられるような問いであり、逆にその問いなしには志向...
レヴィナスは現代思想のただ一人のモラリスト。倫理とは第一哲学、そこから形而上学における他の枝がわかれて意味を持つようになる。「正義について」の問いによって存在が引き裂かれ、人間が存在するとは別の仕方で、また世界への超越として打ち立てられるような問いであり、逆にその問いなしには志向によるいかなる問いかけももはや儚く虚しい追求となるほかないような問い。 人はどのようにして考え始めるのか-言葉という形でおよそ表現しえないような外傷や手探りから始まる。別離、暴力的場面、時間の単調さに関する突然の自覚。このような最初の衝撃が疑問や問題とかし、思考する機会を与えるのは書物を通して。 哲学的な問題を人間にはの意味、かの人生の意味の探求として理解した。 聖書は書物の中の書物。そこでは根本的なこと、つまり人間の生が意味を持つために言い表されなければならなかったことが述べられている。 デュルケームとベルグソンは師のまた師。 思慮するー自己を把握するー把握し直す、「私たちはどこまで進んでいるのか」という問いを明確に提起し現状を見極める力。これが最も広義における現象学。 不安とは無にいたる本来的で適切な通路。 イリヤ、ざわめいている静寂。空っぽの貝殻を耳に当てると、その空白が満たされているように、その静寂がざわめきのように聞こえることとどこか似ている。あれこれがあるというわけでなく、存在の舞台そのものが開かれている、「ある」。この気の狂わんばかりの経験のなかではそこから抜け出すことが全面的に不可能に感じられる。(『時間と他者』)急務は「ある」から抜け出す試み、無意味から抜け出す試み。 「存在者」や何かは存在のなかのある(-無意味)に対する支配に相当するというものでした。彼らは無意味の恐怖のなかでの黎明の光。存在から何かに至る移行、動詞の状態から事物の状態への移行について語った。 無意味から抜け出すには自己を廃位する他者との社会的関係(無私無欲な関係)を必要とする。 他人に対する責任、他者に対する存在が存在の匿名的で無分別なざわめきをせきとめるように思えた。孤独から抜け出すことでなくイリヤ(無意味)から抜け出すことが目的。 途中までよかったが、男性的女性的と性別で区切って語り始めたとこで読む気がなくなった。
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この現実社会に生きている限り、「闘争・略奪・殺害」、もうちょっとマイルドな言い方なら、「競争」に関わらずに生きていくことは不可能なのは、多くの人が認めている。その酷な現実は、小学校の理科の教科書にも載ってるし、経済学の初級本にも大前提とされている。 このことを全面的に拒否しよ...
この現実社会に生きている限り、「闘争・略奪・殺害」、もうちょっとマイルドな言い方なら、「競争」に関わらずに生きていくことは不可能なのは、多くの人が認めている。その酷な現実は、小学校の理科の教科書にも載ってるし、経済学の初級本にも大前提とされている。 このことを全面的に拒否しようとすると、大変なことになる。コンビニでから揚げ弁当を買った瞬間にアウト。アスファルトで固められてた道路を踏んだ瞬間でアウト。だから、誰も「生きている限り、殺害に関与している。」という事実を否定する権利はない。 どうしてこんなことに巻き込まれたのかと、反省してみる。極端な話、「存在している」から。ハイデガーの分析によると、人間存在は、自分に関連付けられた周囲世界を更新していく仕方で存在している。この「自分に関連付けられた」「更新」という辺りが、暴力的だと主張したのがレヴィナス。そうした人間存在には、世界は自分が好きなように料理できる素材として現前しているから。 レヴィナスは、「存在していることによって、私は殺害をおこなっているのではないか」という問いが重要だと問題提起している。この問題に対する処方は、「存在するとは別の仕方で・・」ということになる。「じゃあ、死ねってことか?」という批判を避けるために、「別の仕方で・・」となっている。その「別の仕方で・・」は、明確に提出されていないが、レヴィナスは様々な例で答えようとしている。その一つが、「愛撫」という行為。 「愛撫されているものは、正確に言えば触れられているわけではない。愛撫が求めているものは、触れられているこの手の柔らかさやぬくもりではない。こうして愛撫が求めているということこそ、愛撫が何かを求めているか自らは知らないという事実によって、愛撫の本質をなすものである。・・・愛撫は逃れ去っているゆく何ものかとの言わば戯れ、企図も計画も完全に欠いた戯れであり、われわれ自身になりえたりするものではない他の何ものか—つねに他であり、つねに到達しがたく、つねに来るべき何ものかとの戯れである。」 この愛撫の記述は、もちろん性欲から来るそれとは本質的に異なる。もろもろの欲望は、他なるものを自己に同化させる行為を促すが、この愛撫は、決して同化することのできない「何ものか」との戯れで、絶対的な他者、無限性が暗示される場所である。こうした他者性こそが、われわれを存在とは別の仕方へと導く。
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レヴィナス自身の語りによる、レヴィナスの哲学への格好の入門書。『存在の彼方』以後の思想にも言及されている点、とても示唆的。訳者解題も非常に丁寧で、参考になる。
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インタビューなのでレヴィナス特有の魔術的文体は味わえないが、ポイントを簡潔に押さえているので、レヴィナス入門としていいかもしれない。 レヴィナスをしきりに読んだのは何年も前だが、また読みたくなってきた。 それにしても、この本、こんなに紙の質がいいのはなぜだ?
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