小説神髄 の商品レビュー
小説とは何か?からはじまり、その後は小説家へのアドバイスになってた。 感想を一言で言えば、つまらない。 教科書のような本で、たくさんの本を読んだ人には退屈に思える。 ただ、小説家を目指している人・目指す人は一度読む方が良いとオススメする。
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流れては消えていき、無限に広がって変化していくように思える話し言葉ではなく、書き言葉として論理的思考をつなぎとめておくため、地の文の在り方が初めて世に問われた。日本人はこうして人間を理解する方法をひとつ増やしたのだと思う。 以下は小説神髄とともに収録された『詩歌の改良』より引...
流れては消えていき、無限に広がって変化していくように思える話し言葉ではなく、書き言葉として論理的思考をつなぎとめておくため、地の文の在り方が初めて世に問われた。日本人はこうして人間を理解する方法をひとつ増やしたのだと思う。 以下は小説神髄とともに収録された『詩歌の改良』より引用。読み仮名、句点は筆者。 「美術は国家の花ともいふべく実学は其葉其枝(そのはそのえだ)なり。桜の枝葉を培養するは四月の爛燦(らんさん)を愛すればなり。花を観るの日を俟(ま)てばなりけり。」 福沢諭吉は小説なんぞとの態度であったようだが、現在の国語の教科書に夏目、芥川、中島が載っているのは坪内逍遥が小説に芸術性を見出そうとしたから。実学実益も当然あった方がよいが、実益だけの世の中なんて、ツラいわ!!
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1885(明治18)年刊。 日本文学史上の重要書とされるものだが文語体なので敬遠して読んでいなかった本。読めないことはない程度で、ときどき古語辞典も引いた。 「小説」なる語のシニフィエとして、逍遙は西洋近代小説(主にイギリス?)をイメージしており、源氏物語以降の日本の物語群か...
1885(明治18)年刊。 日本文学史上の重要書とされるものだが文語体なので敬遠して読んでいなかった本。読めないことはない程度で、ときどき古語辞典も引いた。 「小説」なる語のシニフィエとして、逍遙は西洋近代小説(主にイギリス?)をイメージしており、源氏物語以降の日本の物語群から草紙系に至るものも広義の「小説」として扱ってはいるが、里見八犬伝に代表され、その後明治の初め頃まで似たようなものが乱発されていたらしい「勧善懲悪」的な物語を、逍遙は批判している。例えば「善」側のモデルとして描かれる人物はみな完璧なタイプに過ぎず、欲望や情動に揺れる人間性(人情)が写し出されていない。この批判テーマが有名な 「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」 というモットーになる。 確かに、バニヤンの『遍路歴程』のような、人物が寓意に過ぎず作者が外側に明示されその意志で人形を操るように物語を進めるような書き方は、あまりにも硬直していて面白さを感じない。私の考えで言えば、それは物語内の諸要素が、それ自体の自己組織化に任せていないために作品世界が有機性を欠くためだ。逍遙が言うように主人公らの「人情」を重視して、その性質の自然な推移に任せて動かしていった方が面白いだろう、ということは分かる。 もっとも、坪内逍遙のこの考え方自体も恣意的であって、「まあ、この人はこう考えたんだな」という程度ではある。物語をどのように評価するかということは、文化上のもろもろのコンテクストに委ねられているので、その定位の仕方は交換可能なものだろう。 が、本書が以降の日本近代文学に与えた影響の大きさは、きっと決定的なものだったのだろうとは考えることが出来る。 さまざまな江戸文学に触れられている中で、私が頗る高く評価し、西洋の近代文学に比すべきものとさえ考えている上田秋成の『雨月物語』(1776)については、何故かまったく言及がない。怪異ものについては語ることさえ無駄と逍遙は思ったのかもしれない。 あと、小説は「美術」の一つ、と頻りに言っていて、この美術はこんにちでは「芸術」と言われていることなのだろうが、芸術という語はこの頃まだ使われておらず、美術は視覚芸術に限られていなかったようだということが気になった。確かにartを訳せば、芸術も美術も同じことになる。では、現在の意味で芸術・美術という語が定着したのはいつ頃のことなのだろう?
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美術が何であるかを知りたいと思っていたおり、手に取ったこの本の目次に総論として「美術とはいかなるものなりやといふ事につきての論」と書いてあったので読み始めました。逍遥先生の考えでは ・ナイフを作るときは「切れること」を目的としてものを作るよね ・じゃあ美術は「人文発育」を目的に作...
美術が何であるかを知りたいと思っていたおり、手に取ったこの本の目次に総論として「美術とはいかなるものなりやといふ事につきての論」と書いてあったので読み始めました。逍遥先生の考えでは ・ナイフを作るときは「切れること」を目的としてものを作るよね ・じゃあ美術は「人文発育」を目的に作るのかな? ・それは副作用にすぎないよね ・美術とはその妙が神に通じて見る人を知らず知らず「神飛び魂馳するが如き幽趣佳境を感ぜしむる」ものだよね ・だから美術からは目的の2文字を除いた上で、見た人の心目が悦んで気格が高尚になるものとすればよいのでは? とのこと。なるほど!これからはそういう目線で考えてみよう!
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それまでの荒唐無稽な「戯作」から脱却し「小説(ノベル)」を書くべし!と謳う上巻。では実際にその「小説」を書くにはどうすれば良いかという細かい考えを述べる下巻という構成。 上巻の「総論」、「変遷」と読んでてひしひしと感じるのは、坪内逍遙、近世の戯作が大好きだし、演劇・芝居・浄瑠璃...
それまでの荒唐無稽な「戯作」から脱却し「小説(ノベル)」を書くべし!と謳う上巻。では実際にその「小説」を書くにはどうすれば良いかという細かい考えを述べる下巻という構成。 上巻の「総論」、「変遷」と読んでてひしひしと感じるのは、坪内逍遙、近世の戯作が大好きだし、演劇・芝居・浄瑠璃その他エンタメ大好きでしょう(笑)と。 八犬伝などをダメな例の引き合いに出してはいますが、「このままではこの国の文学はダメなんだ」的な使命感溢れた結果からの引き合いなので、作品や作者に対する悪意や軽蔑は全くない。 そして、逍遙の読書範囲と読書量の多さに驚き。主に英語圏の文学作品になりますが、メジャー作品を押さえており、一方で国内は源氏物語(もちろん本居宣長の研究本も含めてね)にはじまり、西鶴、一九、馬琴、草双紙の数々と挙げていくときりが無いですが、この海外の文学作品群と、国内の(それまでの流行である、戯作的な)文学作品とを比較して、両方に触れた逍遙だからこそ、あふれ出た想いなんだろうなぁというのが凄く伝わってくる。 今の時代に読むと、主張している内容には視野が狭い部分もありますが、あの時代のこの若さ(26、7歳ぐらいか)の逍遙だと考えるとその気概がすごい。なにはともあれ、あれだけたくさんの文学・芝居・演劇含めた知識のバックグラウンドがあったからこそ書けた本だと。 これ読むまでは、坪内逍遙というと演劇好きの私の中ではシェークスピアを全作翻訳した人のイメージが強かったですが、これがベースにあっての活動なんだな、というのが判りました。
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※メモ。 「小説神髄」坪内逍遥 ----- 「小説総論」二葉亭四迷 人の善悪⇔小説の是非 観念的⇔定義的 基本のキを解くことに不粋?を感じるけれども、ベースとなるものだから、「御辛抱を願うになん。」 ----- 意は形に依って見われ形は意に依って存す 意は内に在ればこそ外...
※メモ。 「小説神髄」坪内逍遥 ----- 「小説総論」二葉亭四迷 人の善悪⇔小説の是非 観念的⇔定義的 基本のキを解くことに不粋?を感じるけれども、ベースとなるものだから、「御辛抱を願うになん。」 ----- 意は形に依って見われ形は意に依って存す 意は内に在ればこそ外に形われもするなれば、形なくとも尚在りなん。 批評家としてのベリンスキーは、ヘーゲル哲学の影響を受けた、ドイツ・ロマン派の弟子として、「詩はそれを越える目的を持たない。それ自体が目的である」と言い、芸術の機能に関する〈教訓的・功利主義的〉見解をとらなかった。偉大な古典作品は、それが自立して自発的に生み出されたものならば、世界そのものの真の諸関係をあらわし、その読者の道徳・政治への見方を変化させることによって、あらゆる諸問題を解決するであろう、と考えていた。 四迷も、あながちこれもいいすぎではあるまい、という立場。 ※うがった読をせずとも、小説から受けるそのものがまさに小説の存在義で、 形←物→事 = 形⇔事 物に意が出ている、これを物の持ち前という。つまり…? アフォーダンスとは関係ある? 同じく、事の持ち前もある。 若し此の如く我感ずる所を以て之を物に負わすれば、豈に天下に意なきの事物あらんや。 我々が感ずる所を物に投影しているがゆえ、だからこそ意なきの事物がありえることはない。 人間の眼(意識)を通した、世界の在り方。 んで、何某の事物にその意が全て出てるとは思っちゃあいけない。 して見れば張三も李四も人は人に相違なけれど、是れ人の一種にして真の人にあらず。 イデアを思う。 易らざる者は以て当にすべし、常ならざる者豈当にならんや。 意はそうそう変わるものではない、かわらざるものは意在りと信じて当てにすべし。 清元は意気で常磐津は身がある 清元節、常磐津節。それぞれ三味線音楽の流行した流派で、浄瑠璃の一種。歌舞伎の伴奏として広く聞かれていたらしい。 富婁那…釈迦十大弟子の一。弁舌巧妙。 是れ物の意保合の中に見われしものというべき乎。※保合=もちあい。継続安定。 結局百聞は一見に如かずとあり、 知識から云々するより手っ取り早く感ずる方が解る。インスピレーションを得る。 意は遍く宇宙に存在し、混淆し、容易に顕現せず。だから芸術は凄いんだ。解るように形をつける。 インスピレーションの連鎖。 宇宙→芸術家→尋常の人 故曰、美術は感情を以て意を穿鑿するものなり。 小説もそう。宇宙のインスピレーションを伝え解らせるためには、リアリズムによって感得できる形になっていなきゃならない。嘘くさい作りものは、小説の名を借りた説教である、と。 摸写といえることは実相を仮りて虚相を写し出すということなり。 これが小説の神髄だ! つまり、世界の有様、宇宙の模様を模写しながら、そこに文体言いまわし表現からの穿鑿を与えることで、意を顕にする。仏像みたいなもんだな。 んで、そのためには活き活きとした文章が必要です。かたっ苦しい言いまわしと、情動を端折った物語りで、意を汲み取ることはできないでしょう、と。 浮世の形のみを写して其意を写さざるものは下手の作なり。写して意形を全備するものは上手の作なり。意形を全備して活たる如きものは名人の作なり。
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古文難しい。分類分析はおもしろかったけど、結局西洋かぶれっつーか和魂洋才文明開化の時代の本だなぁ。という感じ。 ただ自分の好きな八犬伝をボロボロにいうあたりにはさすがに気概を感じた。
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