こんな日本でよかったね の商品レビュー
例によって、なるほどと納得する快感を味わった。線を引いた箇所の抜き書きだけ読み返すと、普通のことしか言っていないみたいですが、そこにもっていく展開に説得力があり、エンタメ的サービス精神にもあふれています。以下、ページ数はすべてバジリコ刊の単行本のページ数。 「格差社会」というの...
例によって、なるほどと納得する快感を味わった。線を引いた箇所の抜き書きだけ読み返すと、普通のことしか言っていないみたいですが、そこにもっていく展開に説得力があり、エンタメ的サービス精神にもあふれています。以下、ページ数はすべてバジリコ刊の単行本のページ数。 「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ、金の全能性が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会のことではないのか。(111ページ) 法規と現実のあいだに齟齬があるときには、「事情のわかった大人」が弾力的に法規を解釈することは決して悪いことではない(中略) だが、「超法規的措置」とか「弾力的運用」ということがぎりぎり成り立つのは、それが事件化した場合には、「言い出したのは私ですから、私が責任を取ります」と固有名において引き受ける人間がいる限りにおいてである。 (157-9ページ) 誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方法はないと思う。(176ページ) 社会をよくするには「一気」と「ぼちぼち」の二つしか方法がない。 私はあらゆる「一気に社会をよくする」プランの倫理性についても、そのようなプランを軽々に口にする人の知的能力に対しても懐疑的である。(256ページ) 人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。 (中略) そういうお前は愛国者なのか、と訊かれるかもしれないから、もう一度お答えしておく。 そういう話を人前でするのはやめましょう。 現に、愛国心をテーマに書き始めたら、私もまた「愛国心」のありようを私とは異にする同国人に対する罵倒の言葉をつい書き並べ始めているではないか。 愛国心についてぺらぺら語ることは結果的に同国人を愛する動機を損なう。(259-62ページ)
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(以下引用) 人生はミスマッチである。私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。それでも結構幸福に生きることができる。チェーホフの『可愛い女』はどんな配偶者とでもそこそこ幸福になることができる「可愛い女」のキュートな生涯を描いている。チェーホフが看破したと...
(以下引用) 人生はミスマッチである。私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。それでも結構幸福に生きることができる。チェーホフの『可愛い女』はどんな配偶者とでもそこそこ幸福になることができる「可愛い女」のキュートな生涯を描いている。チェーホフが看破したとおり、私たちは誰でもどのような環境でもけっこう楽しく暮らせる能力が備わっている。「自分のオリジナルにしてユニークな適性」や「その適性にジャストフィットした仕事」の探求に時間とエネルギーをすり減らす暇があったら「どんな仕事でも楽しくこなせて、どんな相手とでも楽しく暮らせる」汎用性の高い能力の開発に資源を投入する方がはるかに有益であると私は思う。(P.155) たしかに「予防」は仕事をふやす。場合によっては「自分のミスではないミスの責任者」というかたちでネガティブな評価を受けることもある。けれども、それがいちばん 効率の良いシステム防御策である。「いいよ、これはオレがやっとくよ」という言葉で未来のカタストロフを未然に防ぐことができる。けれでもカタストロフは「未然に防がれて」しまったので、誰も「オレ」の功績を知らない(本人も知らない)。そういうものである。成果主義は、この「成果にはカウントされないが、システムの崩壊をあらかじめ救ったふるまい」をゼロ査定しする。だから、完全な成果主義社会では、システム崩壊を未然に防ぐ「匿名で行われ、報酬の期待できない行為」には誰も興味を示さない。私たちの社会システムはそんなふうにして次第に危険水域に近づいている。(P.177) 政策の幅が狭いというのは、悪いことではない。それは社会が成熟して、大きな変化を受け付けなくなったということであり、言い換えれば「誰がリーダーになってもあまり変わらない」ようになったということである。(P.267)
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あーおもしろかった。 ○人間は機嫌よく仕事をしている人の隣にいると自分も機嫌よく何かをしたくなるものである。 ○人生はミスマッチである。…それでも結構幸福に生きることができる。 ○こだわらない、よく笑う、いじけない ○夢を達成できるかは、自分の将来の こうなったらいいな状態...
あーおもしろかった。 ○人間は機嫌よく仕事をしている人の隣にいると自分も機嫌よく何かをしたくなるものである。 ○人生はミスマッチである。…それでも結構幸福に生きることができる。 ○こだわらない、よく笑う、いじけない ○夢を達成できるかは、自分の将来の こうなったらいいな状態 についてどれだけ多くの可能性を列挙できたかにかかっている。
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読み始めてから、この本は読んだことがあったということに気がつく。そんなに多くはないけれども、これまでもない訳ではないという類のことだし、前に読んだこと自体を忘れてしまっているわけなので、内容についても覚えていることは少なく、初めて読むのと別に変わらない。 最初の方に出てくる「言...
読み始めてから、この本は読んだことがあったということに気がつく。そんなに多くはないけれども、これまでもない訳ではないという類のことだし、前に読んだこと自体を忘れてしまっているわけなので、内容についても覚えていることは少なく、初めて読むのと別に変わらない。 最初の方に出てくる「言葉の力」というコラムは面白かった。題材は「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」という朝日新聞のコマーシャルコピーだ。日本のテレビを見る機会がほとんどないので、今でもやっているのかどうか知らないけれども、僕が日本にいた時には、テレビコマーシャルでもこのコピーが流れていたと思う。 僕自身は、このコピーに対して、何となく、変な感じ・違和感を持っていたのだけれども、何故、違和感を持つのか分からないでいた。 その違和感の正体を、内田樹が、小田嶋隆のブログからの引用を紹介しながら、あるいは、内田樹自体の言葉で説明してくれている。 小田嶋隆は、このコピーは「微妙に恥ずかしい」と評した上で、その理由を下記のように考えていることを紹介している。 ■朝日新聞自体が、言葉の力を信じていないのではないか。「力」を「チカラ」等としているのは、その表れ。 ■「感情的で、残酷で、ときに無力」なものを、簡単に信じちゃって良いの? ■言葉を信じることよりも、言葉のうさんくささを自覚して、常に自らを戒めることがジャーナリストの心構えの第一条じゃないの?言葉の「チカラ」を安易に信じるジャーナリストは包丁の切れ味に疑いを持たない板前と同じで、ダメな職人。要するに素人。 更に内田樹は、"「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める"という自説(というか、ラカンの教え)を引いて、朝日新聞のコピーに違和感をとなえている。 朝日新聞のコピーは、「言葉は道具である」という大前提に基づいて出来ているが、本当にそんなこと言っちゃって良いの?ということだ。言語以前にすでに感情があり、他社への害意があり、「言葉」はそれを現実に示すための「道具」に過ぎない。そして、言語の価値は、それが「無力」であるか「有力」であるかの、現実変成の結果によって計量される、ということを朝日新聞は言いたいのですね、それは本当でしょうか?というような異議申立だ。 「私は私が書いている言葉の主人ではない。むしろ言葉が私の主人なの」であり、「言葉の力」とはそれを思い知る経験のことのはずなのに。 たぶん、僕自身の違和感は、朝日新聞のコピーは、「自分達の言葉で世の中を変成し得るし、それをするのがジャーナリストだ」と言っているように感じて、それに対する違和感だったと思う。 だから、小田嶋隆や内田樹の違和感とは中身が微妙に違うのだと思うけれども、でも、小田嶋隆や内田樹が言っていることを、無意識に感じていたのかもしれない。 そういうところが「面白い」と感じた次第。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
ブログの内容をテーマごとに編集・加筆されたものだけあって、いろんなテーマが散らばっていて読みづらい部分もあった。しかし、言葉が先にあって意味は後からついてくることやなぜ葬礼を行うかなど、最近自分の中でもやもやしている悩みに対してヒントを与えてくれる箇所がいくつかあって良かったです。
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私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのができないものを、私たちは語ることができない。 世界は私の世界であるということは、言語〔それだけを私が理解している言語〕の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわ...
私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのができないものを、私たちは語ることができない。 世界は私の世界であるということは、言語〔それだけを私が理解している言語〕の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは、世界の境界なのです。 自分の言葉が自分の世界の境界である・・・
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なんでこれが本棚にあったのかはわからないけど、読んでみたら面白かった。思考の感覚が似ているんだろうな、内田せんせと。 ま、こちらは商売として、エッセイではなくて結果やデータをださなアカンのが辛いところや。
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「こんな日本でよかったね」 このタイトルは小泉首相が構造改革を旗印に 日本を変えようとしている際 それに違和感を覚えてつけたという。 今となってみれば、 小泉構造改革がすべて悪だとは言わないが ゆり戻しや破たんがあちこちで起きている。 それよりも何よりも日本の赤字問題は またまた...
「こんな日本でよかったね」 このタイトルは小泉首相が構造改革を旗印に 日本を変えようとしている際 それに違和感を覚えてつけたという。 今となってみれば、 小泉構造改革がすべて悪だとは言わないが ゆり戻しや破たんがあちこちで起きている。 それよりも何よりも日本の赤字問題は またまた棚上げにされている。 でも、そういった不安感を持ちながらも 「こんな日本でよかったね」という言葉は 今の日本に安堵感をもたらす。 内田先生は構造主義を分かりやすく語る大学の先生。 さてさて、構造主義とは何かを簡単には語れないが (理解できてないので) 本書からひたすら抜粋。 「私は知っている」ではなく、「私にはよくわからない」から 始まる知性の活動、私はそれが構造主義だと理解しています。 作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。 モーリス・ブランショ 「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める。 リアルなのは言葉だけである。 言葉の向こうには何もない。 けれども言葉は「言葉の向こう」があるという 仮像をつくりだすことができる。 古代中国社会に濃密に漂い、 リアルに人を撃ち殺すだけの力をもっていた祝能と それを統率するダイナミックな力をもつ文字についての 物語を読んでいると、私は胸がどきどきしてくるのを感じる。 子どもには先行世代に 「対立する態度を取る同性の成人」が 最低二人は必要だということである。 なぜ、葬礼を行うのか? 理由はひとつしかない。 それは葬礼をしないと死者が 「死なない」からだ。 人生はミスマッチ。 平川克美 レヴィナス老師が私たちに求めたのは 目が覚めるたびに「私は誰でしょう?」と 問いかけるような「知性の次数」の繰り上げである。 コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、 「こだわり・プライド・被害妄想」。 春日武彦 「強い個体」とは「礼儀正しい個体」。 世界を一気に救おうと考えは人間の人間性を損なう。 レヴィナス 「女性的なもの」の本質は「無償の贈与」。 できるだけ今の自分と縁の遠い人間の書いた本を読むこと。 すべての世界史的な大事件や大人物は二度あらわれるものだ。 ヘーゲル 「リセット」の誘惑に日本人は抵抗力がない。 泣くべきときに正しい仕方で泣けること。 構造主義的なものの見方とは、私たちの日常的な現象のうち 類的水準にあるものと、民族誌的水準にあるものを 識別する知的習慣のことである。
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人生はミスマッチ(p151)より 学校の先生がすること:「心身がアクティブであることは、気持ちがいい」とういことを自分自身を素材にして子どもたちに伝えること。 ⇒先生ではないけど、職場、家庭でも部下や子供や周囲の人に対して心がけるといい思う。 ⇒朝会や日常業務、部内会議でメッセ...
人生はミスマッチ(p151)より 学校の先生がすること:「心身がアクティブであることは、気持ちがいい」とういことを自分自身を素材にして子どもたちに伝えること。 ⇒先生ではないけど、職場、家庭でも部下や子供や周囲の人に対して心がけるといい思う。 ⇒朝会や日常業務、部内会議でメッセージを発信しよう。
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別の本で鈴木邦男が「愛国心は小声でそっと言うべき言葉」と書いていた。本書でも「そういう話を人前でするのは止めましょう」とある。でも語りたいものなんだろう。
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