ガンジーの危険な平和憲法案 の商品レビュー
ガンジーは、インドの独立にむけて、それこそ命をかけて、非暴力の抵抗運動をやって、国父と尊敬されていたのだが、でもまさにインドの独立の瞬間にその夢は挫折する。 ということなんだけど、インド独立時のガンジーの孤立の理由みたいなのは、今ひとつ、分からなかった。 この本は、その辺の経...
ガンジーは、インドの独立にむけて、それこそ命をかけて、非暴力の抵抗運動をやって、国父と尊敬されていたのだが、でもまさにインドの独立の瞬間にその夢は挫折する。 ということなんだけど、インド独立時のガンジーの孤立の理由みたいなのは、今ひとつ、分からなかった。 この本は、その辺の経緯が明確に書いてあって、かなりよく分かった。 イギリスから独立しようとするなかでは、ガンジーの理想主義的なカリスマが必要だったんだけど、いざ、国を作ろうとしたときには、それはジャマだった。といっても、ガンジーは国民的なヒーローなので、神格化しといて、現実の政治では無視しよう、みたいな。で、ガンジーの言っているような地方というか、民衆をベースとした非暴力な国ではなくて、いわゆる欧米型の普通の国を建国時のリーダーたちは作りたかったんだね。 で、この流れ、そしてヒンズーとイスラムの対立で、結局、インドとパキスタンに分かれて、戦争状態になったり、みたいなところで、晩年のガンジーは自分がずっと頑張ってきた目標に手が届きそうなところで、全く違うことに世界がなってしまって、失望したのだろうな、というのが、よく分かる。 ガンジーは最後は、暗殺されるのだが、暗殺者の理由は、ちゃんとした国(軍事力をもって、国際社会のなかで独立を保てる国)にインドがなるためには、ガンジーは障害である、ということだったらしくて、まさに、上に書いた対立のなかで殺されてしまったのだな、と。 ガンジーは理想主義、平和主義なんだけど、そこに全く収まり切れないラジカルさ、政治性、そして、ある意味、現実性をもっていて、その辺のところを再認識できたのがよかったな。 ちょっとガンジー関係の本で積読になっている「わたしの非暴力」を読んでみようかな。
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ガンジーと云えば、「非暴力主義」の代名詞で知られる。キング牧師なども同様だ。 ただ、微妙なニュアンスではあるが、キング牧師は「非暴力直接行動」であり、ガンジーは「市民不服従」が正しいと思う。 この著書は、とても分かりやすい。 まず、暴力の定義、ガンジーの選んだ暴力。 マキャベリ...
ガンジーと云えば、「非暴力主義」の代名詞で知られる。キング牧師なども同様だ。 ただ、微妙なニュアンスではあるが、キング牧師は「非暴力直接行動」であり、ガンジーは「市民不服従」が正しいと思う。 この著書は、とても分かりやすい。 まず、暴力の定義、ガンジーの選んだ暴力。 マキャベリとの比較は非常に興味深いものだった。 帰納法、演繹法。この考え方は日常生活にも応用できる。 『ヒンド・スワラージ』も読んでみたい一冊。 このガンジーの行動を借りに日本に当てはめると、各省庁の全権限、役割を全ての都道府県に振り充てるって感じかな。 話変わるけど、不必要な省庁が何と多いことか。 でもまあ、都市型中央政権じゃ無理か。 ガンジーの考えをまとめると、よそはよそ、うちはうち。と云う、シンプルなものになるような気がする。
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国家とは「暴力」の性質を持つ ガンジーの理想は国家ではなく「共同体」を作ること 権力とは「契約」で生まれる 協力することで発生すること 権力への抵抗は「非協力」
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[ 内容 ] その膨大な講話の中から、憲法にかかわる部分をまとめた『自由インドのためのガンジー的憲法案』が、六〇年前のインドで刊行されていた。 しかし、建国の父とまで謳われた聖人の憲法案は、今日に至るまで黙殺されたままである。 それは一体なぜなのか? その謎を解く鍵は、産業資本主...
[ 内容 ] その膨大な講話の中から、憲法にかかわる部分をまとめた『自由インドのためのガンジー的憲法案』が、六〇年前のインドで刊行されていた。 しかし、建国の父とまで謳われた聖人の憲法案は、今日に至るまで黙殺されたままである。 それは一体なぜなのか? その謎を解く鍵は、産業資本主義の生産方式とライフスタイル、および国民国家の存立根拠とは相容れない幻の憲法案を、もう一度精査することにある。 日本国憲法第9条とはまったく異質なその戦争放棄思想は、金融資本主義が壊滅しつつある現在、異様なリアリティをもって我々に迫ってくる。 [ 目次 ] 第1章 最大のタブー(史上最大の非暴力勢力;議論の不在 ほか) 第2章 幻の憲法論の全貌(ガンジーの幻の憲法案との出会い;ガンジー憲法案はユートピアではない ほか) 第3章 起こったことと、起こらなかったこと(ガンジーの新憲法案は平和憲法だ;二種類の平和憲法 ほか) 補論 ガンジー思想の可能性(ガンジーの遺産;現代世界の市民社会 ほか) [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
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私が今までで最も影響を受けた人物であるダグラス・ラミスさんの最新作。 前著でラミスさんがガンジーの憲法案を研究していることはしっていて、その時に私も疑問を持つことができたのですが、この著書はインドでの研究結果を論文にしたものをベースにして書かれたものです。 前著で持った疑問...
私が今までで最も影響を受けた人物であるダグラス・ラミスさんの最新作。 前著でラミスさんがガンジーの憲法案を研究していることはしっていて、その時に私も疑問を持つことができたのですが、この著書はインドでの研究結果を論文にしたものをベースにして書かれたものです。 前著で持った疑問、それはガンジー率いる非暴力・不服従運動により独立を獲得したインドが、何故暴力をもつ近代国家への道を歩んだのか、ということ。 私は詳しくは調べていなかったから知らなかったけど、暴力をもつのかもたないのかという議論さえも残っていないということで、ラミスさんはそこに疑問を感じていて、インドの研究機関から呼ばれたことを機に研究を進めはった。 ガンジー本人はやっぱり、独立後も暴力を持たないことを最後まで主張していたらしい。 彼の描いたインドというのは、その当時残っていた昔ながらの伝統的な村に主権をわたし、その上にある国家機関には村々をアドバイスしたりリードしたりという権力しかもたない。それこウェーバーが言ったような「正当な暴力」を有すると主張するような国家ではない。そして70万の村はそれぞれ共和国として生きていく。 インドの村はかなり発達していたらしく、それぞれの村でほとんど自給自足していたし、その中にきちんと警備員なども組織されていたらしい。だから、ガンジーはイギリスからの支配から解放されなければいけないけれど、それぞれの村を残したまま、そして暴力は持たないまま発展すべきである。そう唱えていた。 結局、ガンジーは暗殺されてネルーは普通の近代国家への道を歩む。 しかし、ガンジー自身は自分のビジョンが理想主義だから達成できなかったのではなく、「説得できなかった」ことに原因があるとする。つまり彼の描く理想郷は達成できないものなのではなく実は現実的で達成すべきもの、そして達成可能なのであるが、人々に納得してもらえるまで説得することができなかった、ということ。基本的にこの立場はラミスさんとかなり似てると思う。影響されたのか元々そうなのかは知らないけど。 だから、ネルーをはじめとして国民会議が普通の国家へと歩みはじめたとき、ガンジーは絶望して自らの死を意識しだした。「何故神はこの現実を観察させるために私を生かすのだ」と。 国際政治や世界史を勉強していれば、暴力を持たない国家などただの理想郷でしかないと一蹴していまいそうになる。でもそれはただ世界史や政治史というのは戦争の歴史であって、そこに描かれていない社会もたくさんあって、そこには非暴力で平和を勝ち取ってきた人々の行動もある。少なくともガンジーはそう言う。 そして何よりも、インドの独立という歴史的事実がある。 非暴力、不服従。 そこにはガンジーが暴力よりも強力だといっただけの力はあるのかもしれない。 ガンジーはインドがイギリスに植民地化されている原因はイギリスの強さよりむしろインド人が服従していることにあるという。イギリス人のつくる法律を守り、イギリス人が作る作物を買い… だから協力するのを辞める、それが大きな力になると。 王様にしてもその人を王様と従う人がいなければ彼は王様ではなくなる。 ラミスさんも述べるようにマルクスのプロレタリア革命論と通ずるところがある。 レーニンを経てマルクス主義は暴力革命を肯定するものだと受け入れられているけど、実はマルクスは暴力革命については述べていない。 面白すぎた。さすが私の教祖ラミスさん。 ラミスさんはガンジーの非暴力革命論、スワラージ等、今の世界における市民社会に使えると論じている。 その可能性というのは、先進国社会の働きすぎの労働者、圧倒的多数の途上国の被抑圧者を解放する可能性であると思う。 押し入れの奥底に眠ってるガンジー自伝を引っ張り出して読もう。 マルクスもやっぱり自分で頑張って読みたい。 その後継者がどのようにマルクスを修正したのかも。
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「国家は、濃縮し組織した暴力である。個人には魂があるが、国家は魂のない機械である。国家の存在自体が暴力に由来するので、暴力から離乳することができない。」 「彼の憲法には戦争放棄があるのではなく、その政治形態の構造自体から、戦争の可能性が最初から排除されている。」 「非暴力とは...
「国家は、濃縮し組織した暴力である。個人には魂があるが、国家は魂のない機械である。国家の存在自体が暴力に由来するので、暴力から離乳することができない。」 「彼の憲法には戦争放棄があるのではなく、その政治形態の構造自体から、戦争の可能性が最初から排除されている。」 「非暴力とは、仙人や聖人にならないとできないことなのではなく、私たちがいつもやっている、通常の人間の付き合い方なのだ。」 「支配者は、思考を停止させる言葉を作るのがとても上手だ。たとえば、内政干渉を「援助」と、乱開発を「経済発展」と、侵略を「人道介入」と、虐殺を「付随的損害」と、成功した弾圧を「平和」と言う。」
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イギリス植民地勢力の軍事力のほとんどがインド軍、つまりインド人で構成されていた。 ガンジーは国の軍事力は否定していない。 しっかりした村がインド社会の基礎だった。
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日印二つの“平和憲法”に見る決定的違い【赤松正雄の読書録ブログ】 もし、ガンジーが暗殺されずに、生き続け、独立したインド政府の元首になっていたら、どうなっていたか。60年余後の地上に展開されている事態の打開に、決定的な役割を果たす国家モデルを示したにちがいない。C・ダグラス・...
日印二つの“平和憲法”に見る決定的違い【赤松正雄の読書録ブログ】 もし、ガンジーが暗殺されずに、生き続け、独立したインド政府の元首になっていたら、どうなっていたか。60年余後の地上に展開されている事態の打開に、決定的な役割を果たす国家モデルを示したにちがいない。C・ダグラス・ラミスの『ガンジーの危険な平和憲法案』は、そう呼び掛ける。 この本は、私が尊敬してやまない大先輩に選挙後に勧められた。選挙後の堅い頭に染み入るには、少々てこずった。金融資本主義の暴発とテロとの戦いで「第三次世界大戦」の暗い淵を覗きつつあるとされる現代人にとり、読んで損はない思索のヒントを与えてくれよう。 「20世紀の国づくりをしたリーダーたちのうち、国家元首にならなかったのは、ガンジーだけ」―なれたのに、ならなかったのか、それともなれなかったのか?膨大な講話から憲法にかかわる部分をまとめた「自由インドのためのガンジー的憲法案」が60年前に刊行されていながら、黙殺され、議論の対象にすらならなかった経緯を追う中で、謎は解かれる。 それは、弟子たちですら持て余した、ガンジーの思想の“過激なまでの理想主義“だった。非暴力を根底に置く理想主義者・ガンジーによって構築されたインドが結果的に、当の張本人の構想とは別の歩み方をしてしまったのは、一般的に国家には無理な試みをめざしたからと受け止められている。「倫理的な手段ばかりを利用して国を独立まで指導した人は、独立後に生まれる暴力国家の悪質な手段をどうして用いることができるだろうか」―そうした変身ができないガンジーは、あくまで非協力、非暴力に徹して植民地支配から脱しての国作りを進めようとした。 地域の最前線に小さな村組織にも似た数多の「国家的組織」を作り、非協力、非暴力の拠点にするとの構想は、「軍事力だけでなく、警察の強制力も、強制的な処罰も、つまり国家の「正当な暴力」そのものが構造的に排除されている」として、その徹底した平和主義を描く。 日本の憲法9条は、「熱烈で雄弁ではあるが」、その本質は「(警察制度、監禁制度、死刑制度など)正当な暴力を独占しようとしている、まったくの普通の国家なのだ」と、インドの幻の平和憲法を日本のそれとを対比する。戦争を放棄し、交戦権が否定されているがゆえに平和憲法であるとの捉え方の甘さを指摘する。 金融と軍事力とが共に国境を越え人々を破滅に導いていこうとしているかに見える今、およそ非現実的そのものに見えていたガンジーの思想が、最も現実的な打開策を暗示していると思われると言うのだが…。希望的観測にすぎようか。
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あっ、なつかしいC・ダグラス・ラミスだ、と叫んで、本書を手に取りました。 1960年、ベトナム戦争の始まった直後、米軍海兵隊を除隊してベ平連に身を投じて、日本に住み着いた若者も、なんとすでに今年73歳になるんですね。 『イデオロギーとしての英会話』(1976年)ほか何冊かの著...
あっ、なつかしいC・ダグラス・ラミスだ、と叫んで、本書を手に取りました。 1960年、ベトナム戦争の始まった直後、米軍海兵隊を除隊してベ平連に身を投じて、日本に住み着いた若者も、なんとすでに今年73歳になるんですね。 『イデオロギーとしての英会話』(1976年)ほか何冊かの著作しか読んでいませんが、けっこう雑誌・新聞のエッセイや対談を読んだ記憶があります。 2000年に津田塾大を退職されたといいますから、ちょうどその頃は東京に少し居たのですから、退官記念講義など拝聴しに行けば良かったと後悔しています。 で、その筋金入りの反戦主義者である彼が、今また何故ガンジーなのか? すこぶる興味津々ですが、私の従来のガンジー観からすると想像もつきません。 マハトマ・ガンジーのことは、過激な抵抗運動家のマルコムXとの対比・比較で、よく無抵抗主義とかいって非暴力的な面を強調して語られすぎのきらいがありますが、正しくは、非暴力・不服従で、考えられているよりももっと尖鋭的な思想だということは、一応心得てはいるつもりですが。 新たなガンディー(とも表記しますね)が、鮮明に目の前に登場するのをワクワクしながら読んでいきます。
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