身体としての書物 の商品レビュー
書物に「かかわる」、また、遅く読むことによって、新しい知のあり方、生き方を切り拓く視点をつかむ。 大学での講義録を産婆的にまとめた本。 ボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサンを題材に、物に即し、手触りを感じながら、その根源をめざす。根源からは歩むべき光が萌すからだ。
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「身体としての書物」今福龍太 書物考講義録。 書物は世界の写像であり、書物を、人間がどのように捉えて、どのように編み・造り、対峙しているのかを解きほぐしていく一冊。 インターネットが、流れ、拡がっていく世界を写像しているのに対して、本は、その有限性をもって世界を写像している。す...
「身体としての書物」今福龍太 書物考講義録。 書物は世界の写像であり、書物を、人間がどのように捉えて、どのように編み・造り、対峙しているのかを解きほぐしていく一冊。 インターネットが、流れ、拡がっていく世界を写像しているのに対して、本は、その有限性をもって世界を写像している。すなわち、一個の人間が認識して表現することのできる世界を枠の中に閉じ込めることで、身体性と不可分に結びつくとともに、そこから繋がるリンクの有限性、ほとんど無限につづく書架の廻廊、一冊の本から得られる体験の不明瞭さ、そういった体験こそが、まさに私達自身の「世界」であることを表している。 序章・終章を含めて全14回の講義では、4人の思索家(ボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサン)の著作と、自ら手を動かして造本する実践からなる。 ボルヘスにおいては書物の無限性と身体の拡張であること、ジャベスにおいては書物への内なる回帰、ベンヤミンでは圧倒的な他者としての書物、そしてグリッサンでは本の有限性に言及する。 全編をとおして、「本」そのものの物質としての性質とそれが内包する哲学に深く切り込む講義録で、大変読み応えのある一冊。(5)
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デジタルに移行していく過程でなされた様々な危惧は、今となっては取るに足らない出来事であったと、今になれば誰もが口を揃えて言う。ここで述べられている書物の”身体性”もデジタルで再現可能であり、また、"身体性"などという虚妄こそがデジタルと親和性が高いのだというこ...
デジタルに移行していく過程でなされた様々な危惧は、今となっては取るに足らない出来事であったと、今になれば誰もが口を揃えて言う。ここで述べられている書物の”身体性”もデジタルで再現可能であり、また、"身体性"などという虚妄こそがデジタルと親和性が高いのだということを人は知っている。この本の面白さは書物の身体性にあるのではなく、単純に作品読解の面白さである。
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本というものが人にとってどの様に関わってくるものなのかを先人たちの作品を読み解きながら考えていく。 冒頭こそモノとしての本について語られているが全体を通して見てみると、本や言葉といったものが人にとって何なのかということについて書かれた小説やエッセイの評論と言ったイメージ。 論...
本というものが人にとってどの様に関わってくるものなのかを先人たちの作品を読み解きながら考えていく。 冒頭こそモノとしての本について語られているが全体を通して見てみると、本や言葉といったものが人にとって何なのかということについて書かれた小説やエッセイの評論と言ったイメージ。 論の根拠が抽象的なイメージであり少々理解しづらいのは、扱っている対象が人の内的世界という抽象概念だから仕方ないのかもしれない。 終章において紹介される、それぞれの人々の中に潜む何事にも動じない水牛がイデアとしての知識の塊のシンボルとして解釈されるという説明は読者を何となく分かった気にさせる。
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普段本を読まないから、難しくてぴんとこない部分もあった。でもこれ読んで本を読もうと思った。難しい話がわからなくても、感覚的に感じることができる部分もあって、色々考えて楽しい。
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行ってきた。 今福龍太(人類学者・批評家、東京外国語大学教授)によるトークイベント 本とからだをめぐる想像力のレッスン 書物変身譚 vol. 2「書物と壁 ロラン・バルトとスーザン・ソンタグ」 2010.4.17(土)15:00 ~17:00
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図書館があらゆる本を所蔵していることが公表されたとき最初に生まれた感情は、途方もない喜びだった。 全ての人間が手付かずの秘密の宝物の持ち主になったような気がした。 書物は記憶と想像力が拡大園長されたものである。 ユダヤ人とは全ての問いに対して答えを持っている。書くという行為につい...
図書館があらゆる本を所蔵していることが公表されたとき最初に生まれた感情は、途方もない喜びだった。 全ての人間が手付かずの秘密の宝物の持ち主になったような気がした。 書物は記憶と想像力が拡大園長されたものである。 ユダヤ人とは全ての問いに対して答えを持っている。書くという行為について問うことなしに、ホロコーストについて書くことはできない。
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