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なぜか語られなかった日本史の意外な顛末 の商品レビュー

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2024/08/16

時間ができたら必要なものだけを置いて、すっきりとした部屋で過ごしたいと思ってきました。この数ヶ月間、読み終わった本を中心に処分をしてきましたが、部屋が気持ちよくならない元凶は「読みかけの本」が多数あることと、それにも関わらず興味のある本を買ってしまうことでした。 まずは購入して...

時間ができたら必要なものだけを置いて、すっきりとした部屋で過ごしたいと思ってきました。この数ヶ月間、読み終わった本を中心に処分をしてきましたが、部屋が気持ちよくならない元凶は「読みかけの本」が多数あることと、それにも関わらず興味のある本を買ってしまうことでした。 まずは購入してから1ヶ月経過したにも拘らず読破できていない本は、途中で打ち切ることにしました。読破していないということで本の評価は「★1つ」としていますが、内容が悪かったわけではありません。 この本で気になったポイントは以下です。 ・今川氏真は跡目を継いでも、亡き父の弔い合戦を仕掛けようともしなかった、やがて政治力のなさが知れ渡ると、信玄や家康らによってじわじわと追い詰められる。そこに至って、ようやく相模の北条と謀り、義元以来の甲駿同盟を破棄した武田信玄に、塩の輸送を停止したことがある。越後の上杉謙信が、宿敵信玄に塩を送りその窮状を救ったエピソードがこれである(p19) ・秀吉が千利休から召し上げた茶道具を、宗旦を名指しで返したことから、宗旦が利休の後継者と目されるようになった、宗旦には4人の男の子があり、勘当された長男の宗拙を除く、3人がそれぞれ「武者小路千家」「表千家」「裏千家」を興し、今に至っている、宗旦は千家中興の祖として11月19日には「宗旦忌」が営まれている(p25) ・小野妹子は隋の煬帝からの返書を紛失したと嘘をついたのは、返書を見せてしまうと多くの者が憤激し、日本と隋との関係がおかしくなると思ったから(p37) ・戦国時代当時は、倒した敵将の首級を京都の町に晒すことが、実質的な勝利宣言であった。(p40) ・ペリーは、日米和親条約を締結し、交渉の場を下田に移し、細則を定めた下田条約が結ばれた。その後に、琉球でも通商条約を結び香港に引き上げた(p55) ・旧幕臣榎本武揚らが函館政権を樹立したのは、1868年12月15日、この政権はイギリス、フランスから認知されて、国際的にも正統な政権であった(p57) 未読破(116/221ページ) 2024年8月16日作成

Posted byブクログ