ゴドーを待ちながら の商品レビュー
「小説という毒を浴びる」で紹介されていた本。 なんで紹介されていたんだろう、もう一度読み直してみよう。 ファンタジー的な物語がない劇。こんなのどう演じるのか見てみたい気もするけど、実際観たらすごく退屈なんではないかと思う。 会話が飛び飛び?になっていて、あるところで読むのを中断し...
「小説という毒を浴びる」で紹介されていた本。 なんで紹介されていたんだろう、もう一度読み直してみよう。 ファンタジー的な物語がない劇。こんなのどう演じるのか見てみたい気もするけど、実際観たらすごく退屈なんではないかと思う。 会話が飛び飛び?になっていて、あるところで読むのを中断して再開すると連続性がなくて、あれっこんな流れだっけ??ってなる。 おんなじ日を繰り返している?みたいなファンタジーと受け取った。
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主題があるのみ、という感じがする。 来るか分からない(おそらく来ない)ものを待つ、というのは本来的に矛盾したありえない行動である。本当ならば、来ないものは待てない。このことがディテールにも敷衍していて、「そろそろ行こう。」→(動かない)→幕。のような不可解なことになる。 でも「絶...
主題があるのみ、という感じがする。 来るか分からない(おそらく来ない)ものを待つ、というのは本来的に矛盾したありえない行動である。本当ならば、来ないものは待てない。このことがディテールにも敷衍していて、「そろそろ行こう。」→(動かない)→幕。のような不可解なことになる。 でも「絶対来ないだろうな」というものを待つ、という心境は確かにあったりする。考えてみるとなんなんだろう。現在は全ての未来を内包するということ?
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理由も何もうまく説明できないけど、いい! いろんな作品に引用されたりしてて気になってたのですが、やっと読むことができました。 不条理劇といえばコレ!という感じですあまりにも有名ですが、予想を大きく超える良さでした。 設定の不条理さ、登場人物の不条理さ、… なにも確かじゃない世...
理由も何もうまく説明できないけど、いい! いろんな作品に引用されたりしてて気になってたのですが、やっと読むことができました。 不条理劇といえばコレ!という感じですあまりにも有名ですが、予想を大きく超える良さでした。 設定の不条理さ、登場人物の不条理さ、… なにも確かじゃない世界で、比較的「普通」の感覚に近いのがウラジーミルだと思うのですが、この世界で正気を保っていることが、もう既におかしいのかも。 とにかくすごくよかったです。 エストラゴンも、ウラジーミルも、ポッツォも、ラッキーも、男の子も、みんな歪んでる。 ゴドーも。 でも、とっても魅力的な歪み。
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[ 内容 ] 田舎道。 一本の木。 夕暮れ。 エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者・ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている――。 不条理演劇の代名詞にして最高傑作。 [ 目次 ] [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ ...
[ 内容 ] 田舎道。 一本の木。 夕暮れ。 エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者・ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている――。 不条理演劇の代名詞にして最高傑作。 [ 目次 ] [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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二度目の読了。 盲とやる、聾になる、唖になる。 人間の機能が還元され限りなく死に近づく時、人の力強い存在が露わになる。
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この戯曲の舞台は田舎道。一本の木。二人の老いた男がゴドーを待っている。 何も起こらない1日が終わり、とうとうゴドーはやって来ない。 次の日も同じことを繰り返すが、やはりゴドーが来ないまま劇は終わる。 この劇は何も起こらない。いや何も起こらないことが繰り返される。 人の一生が、待...
この戯曲の舞台は田舎道。一本の木。二人の老いた男がゴドーを待っている。 何も起こらない1日が終わり、とうとうゴドーはやって来ない。 次の日も同じことを繰り返すが、やはりゴドーが来ないまま劇は終わる。 この劇は何も起こらない。いや何も起こらないことが繰り返される。 人の一生が、待てど暮らせどやって来ない“救い”を待ち続けることだとすれば、 主観的には悲劇かも知れないし、客観的には喜劇かも知れない―。 悲喜劇は、人生に意義を求め、上手く行ったり、行かない時に生まれる。 逆に意義を求めなければ喜びも悲しみもなく、ただ生きている存在になる。 言わば動物的で、余計な競争がない分 平和な生活だ。 しかしそこに進歩はない。理屈とは限られた時間を効率的に過す道具である。 科学の進歩は、理屈を突き詰めた先にある。 そして進歩すれば牧歌的、動物的生活からは遠ざかる。 この戯曲を読みながら思い浮かぶのは、元祖天才バカボンのパパだった。 パパとバカボンとバカ田大学の後輩が繰り広げる支離滅裂な激論。 それとトカゲのおっさん等の松本人志のコント。 この戯曲には、物事を理屈で捉えるヴラジミールと、直感で捉えるエストラゴン、 感情を持たない男ラッキーと彼を家畜のように扱うポッツォが登場する。 赤塚不二夫や松本人志の世界と何か共通項を感じるのだ…。 この戯曲は、1953年にパリで初演されたシュールコント、不条理ギャグだ。 話に筋もなければ、脈絡もない、ときに言語の嚙み合いすら霧消する。 テンポ良い会話とオーバーアクションで惹き込む第三世代の芝居や、 サラリーマンNEOの芝居を思い出し重ねると面白味が湧くだろう。 最後に。意味が無いことをナンセンスと呼ぶのだとしたら、 ナンセンスの意味を探ろうとすること自体ナンセンスである。 作者ベケットが本作について“言葉遊びとテンポ遊び”と言った様に、 この戯曲の意味を探ることは、それ自体ナンセンスなのかも知れない…。 傑作といわれる書を読んだことに満足。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
初演時の役者はいずれも知らない人たちだが、今、自分がプロデュースするとすれば、主演の二人にはやはり初老の喜劇役者を使うだろう。バイプレイヤーとして長年舞台をつとめてきた、ペーソスのあるような役者がいい。一方、戯曲としてこれを読むと、読後は強い寂寥感に襲われることになる。あたかも胸腔全体が空洞になったかのような。悲しみに似た感情は、1幕の終り近くが最も高くなる。そこで終わってもいいようにも思う。しかし、再び同じような情景と対話が繰り返される2幕の存在こそが、この劇が「不条理劇」と冠される所以なのだろう。
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戯曲『ゴドーは待たれながら』鑑賞ついでに再読。「いつ来るの?今でしょ!」とばかりにやって来るはずのゴドーを2日間待ち続ける話なのだが、最後まで来ることはなく舞台は終わる。そもそもの所、キリスト教は彼の到来を2000年も待ち続けているのだから2日など今更何の事はない。必要とすべき理...
戯曲『ゴドーは待たれながら』鑑賞ついでに再読。「いつ来るの?今でしょ!」とばかりにやって来るはずのゴドーを2日間待ち続ける話なのだが、最後まで来ることはなく舞台は終わる。そもそもの所、キリスト教は彼の到来を2000年も待ち続けているのだから2日など今更何の事はない。必要とすべき理由は剥ぎ取られ、もはやゴドーは到来しないことによって表現となり実存を確認する手段となる。思弁と言語は空回りし続け、身体表現や沈黙こそが主役の様だ。もしくは、ゴドーとは舞台の上映であり演者は演者を演じている楽屋ネタと見るのも一興か。
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田舎道に浮浪者2人。2人は救済者「ゴドー」をひたすらに待ち続ける。基本設定はこれだけ。漠然とした内容から、見るものはそれぞれのゴドーを想像し、自分の人生と重ねる。ゴドーは神なのか、それとも死の暗喩なのか(生は死までの暇潰し)、はたまた…。 私にとってのゴドーとは何か?待ち続けるこ...
田舎道に浮浪者2人。2人は救済者「ゴドー」をひたすらに待ち続ける。基本設定はこれだけ。漠然とした内容から、見るものはそれぞれのゴドーを想像し、自分の人生と重ねる。ゴドーは神なのか、それとも死の暗喩なのか(生は死までの暇潰し)、はたまた…。 私にとってのゴドーとは何か?待ち続けることしかできないのか?終わりの見えない自問自答、読み終わっても物語は終わらない。
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「ゴドーを待ちながら(ベスト・オブ・ベケット)」(サミュエル ベケット:安堂信也、高橋康也 訳)を読んだ。『年ごろ思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、・・・』という感じで、私はゴドーという圧倒的な虚無についての独りよがりな考察をしている。『先達はあらまほしき事なり』(笑)...
「ゴドーを待ちながら(ベスト・オブ・ベケット)」(サミュエル ベケット:安堂信也、高橋康也 訳)を読んだ。『年ごろ思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、・・・』という感じで、私はゴドーという圧倒的な虚無についての独りよがりな考察をしている。『先達はあらまほしき事なり』(笑) と、笑いで誤魔化す。 に、しても、『現れない「ゴドー」は、たどり着けないカフカの「城」と同じように、覗き込めば飢餓感を呼び覚ますほどの深淵によって私という存在から絶望的に隔てられている。』というのが今の偽らざる素直な感想である。 もちろんこういうのは好きなんですけどね。 もう一回読もうっと。心を解き放てば飛べるはずだ。モーフィアスもそう言ってたし。(笑)
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