ゴドーを待ちながら の商品レビュー
タイトルがすてき。 本を読むために喫茶店に入るよりも誰かを待ちがてら喫茶店で本を読む方がはるかに気持ちがいいのとおんなじで、 二人の会話もどこか自由を感じる。 話すために二人でいたら、これは言うほどのことでもないだろうとか、相手はどうしたら面白かってくれるだろうとか考えてしまいそ...
タイトルがすてき。 本を読むために喫茶店に入るよりも誰かを待ちがてら喫茶店で本を読む方がはるかに気持ちがいいのとおんなじで、 二人の会話もどこか自由を感じる。 話すために二人でいたら、これは言うほどのことでもないだろうとか、相手はどうしたら面白かってくれるだろうとか考えてしまいそうなところだが、「待つ」という共通の状態があるからこそ相手がいて話ができるということにまず感謝出来るんじゃないかと思う。 少なくとも「待っている」間は、 本を読みたくなくなったら、もう帰ろうかなと思ったり、 話すことがなくなったらもう一緒にいられないんじゃないだろうかと思ったり、 そういう「魔が差す」みたいな一瞬の焦燥や恐怖に囚われることがない。 待ちながら、という言葉にはそういった情感を感じる。 また、似て非なる反復を目にしているうちに、少しイライラしてくる感じがした。 いったいなぜだろうと考えてみると、それは知らず知らずのうちに少しずつ裏切られ続けているような気がするからだと思った。 反復というわかりやすい図式の中にありながら、この戯曲は図式や形式、論理から逃れようとしているように思える。 だからこそ、こう来たら次はこうじゃないかとか、これらの相関関係はこうだろうと読みながらふんわり感じていることが、その予測どおりにならない。 だけど、そのことに気づくと逆に気持ちよくなってくる気がして、不思議だ。
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文字で羅列すると、間合いが変わるので、見方がずいぶんかわりますね。 ゴドーのこない不条理さと待つ二人の掛け合いを想像するとb面白い。
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覚悟してたほどには「不条理」でも「意味不明」でもなかった。何も違わない、全ては繰り返すのみ。というのは「百年の孤独」を思わせる。
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ふたりの冴えない男たちが珍妙なやりとりを繰り広げながらゴドーを待っているが、ゴドーはいっこうにやってこない…。 〈待つ〉ことは〈誰かを/何かを待つ〉ことだが、相手がやってこない状況においてはむしろ〈誰かに/何かに待たされる〉ことだ。それはきわめて受動的な行為で、しかもその...
ふたりの冴えない男たちが珍妙なやりとりを繰り広げながらゴドーを待っているが、ゴドーはいっこうにやってこない…。 〈待つ〉ことは〈誰かを/何かを待つ〉ことだが、相手がやってこない状況においてはむしろ〈誰かに/何かに待たされる〉ことだ。それはきわめて受動的な行為で、しかもその誰か、すなわちGodot(God-ot→”God, oh”?)が永遠にやってこない他者ならば、ふたりの〈待つ〉はなんと無意味でむくわれない受動だろう。まるで”I was born”の悲しみそのものかのごとく。 とはいえ訳もわからずただ待つほかないからこそかえって会話ははずむのかもしれない。不意に、気の利いた台詞が口を突いてひょこっと飛びだしてくる。「運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。どうだね?」本人を置き去りにしたまま、言葉は喋りつづける。 してみるとこの物語(といえるのか?)において、自由にふるまう主体、という意味での「人物」などはたして見いだせるのだろうか。 わからない。わからないから沈黙する。沈黙したはずなのに、それでも言葉はまた喋りだす。ゴドーを待ちながら。
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不条理演劇の古典にして脱力系演劇の金字塔。男がふたりずーーーーっと来ないゴドーを待ってるだけの話。absurdityというかこういうスタイルの演劇を作り上げた点では評価されるべきだろうし、死ぬまでに一度読んでおいてもいいのかなあとは思うけれど、はっきり言ってこんな演劇を観せられた...
不条理演劇の古典にして脱力系演劇の金字塔。男がふたりずーーーーっと来ないゴドーを待ってるだけの話。absurdityというかこういうスタイルの演劇を作り上げた点では評価されるべきだろうし、死ぬまでに一度読んでおいてもいいのかなあとは思うけれど、はっきり言ってこんな演劇を観せられた日には「金返せっ!!」と叫びたくなるような内容。だってつまんないんだもの。 ラーメンズに「後藤を待ちながら」というコントがあるけど、そっちのほうが何倍も面白いな~。
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田舎道。一本の木。夕暮れ。エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者・ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている――。「不条理演劇」の代名詞にして最高傑作。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
二幕からなる戯曲。 一本の木の傍で、二人の浮浪者ヴラジーミルとエストラゴンはゴドーを待っている。ゴドーはなかなかやってこない。そこにポッツィオという男と、その男の従者、ラッキーがやってくる。ラッキーは首に縄をつけられていて、罵倒されながらポッツォに仕えている。 ポッツォとラッキーが去った後、少年が現れて、今日はゴドーはこない、明日は来るはずだ、との伝言を伝える。 で、結局最後までゴドーは来ない。おわり あんだそれ!ということで話題作・問題作として、1953年パリの初演以来世界中で演じられている。 あとがきに「『ゴドー』に接して、人は無償におしゃべりになりたがっている自分を見出す。」とあるけれど、その通り、私なりの解釈がむくむく浮かんで人に話したくなった。ということで、以下個人的解釈。 ここに出てくる登場人物は全て馬鹿である。考えている途中で何を考えていたか忘れるし、昨日会った人の顔も名前も覚えられない。なぜここに自分がいるのかも忘れてしまう中、そうだ、ゴドーを待っていたんだったとの言葉に我に返り、ただ待つ。 それなのに、箇所箇所に高尚な哲学や史実が彼らの口からちょいちょい語られる。それを聞いた観客の中の知識人は、虚栄心をくすぐられて笑うだろうなと思った。ってそれは落語の手法じゃないか。そう思うと、全てが落語に見えてきた。 阿呆な登場人物たちが阿呆なセリフのかけあいをする、それこそ落語で(ドリフの馬鹿兄弟もそうだなぁ)それを笑いにするのは絶妙な間。この戯曲でも要所要所に(沈黙)という間を指示する場面があって、それがなかなか絶妙。 これ、日本人に向いてますね。スルメを味わうように、思いだしては楽しめると思います。
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ベケットの代表作にして不条理劇の金字塔的戯曲、ということになるのだろうか。ヴラディーミルとエストラゴンという二人の浮浪者が、ゴドーと呼ばれる人物をただひたすら待つだけの脱ストーリー的ストーリー。不条理だけに様々な解釈が可能らしく、おそらくは一読で受けた印象で語れる程度のことはとう...
ベケットの代表作にして不条理劇の金字塔的戯曲、ということになるのだろうか。ヴラディーミルとエストラゴンという二人の浮浪者が、ゴドーと呼ばれる人物をただひたすら待つだけの脱ストーリー的ストーリー。不条理だけに様々な解釈が可能らしく、おそらくは一読で受けた印象で語れる程度のことはとうに語り尽くされているのだろうから、適当な結論を出すつもりは今のところないのだけど、正直なところよくわからなかった。何を語ろうとしていているのか、ということより、この作品がそれほど様々な解釈を引き出す契機をはらんでいると言うことが。実際舞台で観てみるとまた印象も違うのだろうから、今度機会を見つけて観てみたいとは思う。
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言わずとしれた演劇の名作、 サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』。 なんと言うか、 この作品に関しては下手に解説を試みるのは野暮というものだと思う。
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読むのが辛かったー。私の中ではストッパードの「ローゼンクランツ」以来の辛さ。両方とも同じ。これってどゆこと?この人たち何がしたいの?その会話は何もの?だから文章読んでるようにしかなれなくて言葉が素通りしていきました。が!こういうのは解説から読むべきですな。それを読んで意味を求めず...
読むのが辛かったー。私の中ではストッパードの「ローゼンクランツ」以来の辛さ。両方とも同じ。これってどゆこと?この人たち何がしたいの?その会話は何もの?だから文章読んでるようにしかなれなくて言葉が素通りしていきました。が!こういうのは解説から読むべきですな。それを読んで意味を求めず、何も起らない戯曲なのだと受け入れて読んでみると、これがすんなり行くわけですよ。そうしてからは面白く読めたのでした。物悲しく笑える不思議で当たり前なお話でした。
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