カラヤンがクラシックを殺した の商品レビュー
[ 内容 ] 20世紀を代表する指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン。 その流麗な「美」に魅せられた人は少なくないだろう。 しかし、「カラヤン以後」、音楽の風景は一変し、何かが決定的に失われてしまったことに気づいているだろうか。 かつて音楽を聴く聴衆は、その成り立ちに息を潜めるが...
[ 内容 ] 20世紀を代表する指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン。 その流麗な「美」に魅せられた人は少なくないだろう。 しかし、「カラヤン以後」、音楽の風景は一変し、何かが決定的に失われてしまったことに気づいているだろうか。 かつて音楽を聴く聴衆は、その成り立ちに息を潜めるがごとく、宗教儀式のように音楽を体験し、享受した。 そこには特別な「意味」が存在した-。 本書は、カラヤンの音楽と、それを鋭く断罪する二人の音楽家、オットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーブルの、絶望や狂気、矛盾や破滅が内在する『危険な音楽』を通して、20世紀から現代までを覆う「負の遺産」を問い直し、音楽、芸術、そして人間存在を考える。 [ 目次 ] 第1章 音楽の悪魔-プロレゴーメナ(死後20年目のブーム 音楽の言語化 ほか) 第2章 流線型の美学-ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)(『大地の歌』 人口楽園 ほか) 第3章 孤高の絶対音楽-オットー・クレンペラー(1885~1973)(満身創痍の鉄人 アンチ・モラリスト ほか) 第4章 絶望の音楽-ヘルベルト・ケーゲル(1920~1990)(自殺したくなる音楽 途絶えたキャリア ほか) [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
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批判するということは、技術がいることだなぁと思った。 気分が悪くなり、途中で断念。 ただ、著者の奥さんが、 「自殺したくなるからやめて」と言ったという、 ケーゲルの指揮したアルビノーニの「アダージョ」とやらを 聞いてみたい。 絶望しきった音楽とは、どんなものなのか?
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どういう内容の本多か調べもせず何気なく買って何気なく読み出したのだが、カラヤンを通して20世紀という時代の人類の行過ぎた快楽主義を問うという内容だった。しかもカラヤンと比較されるのがクレンペラーとケーゲル。読み始めてどんどん引き込まれていった。しかし、この本で使われている言葉、哲...
どういう内容の本多か調べもせず何気なく買って何気なく読み出したのだが、カラヤンを通して20世紀という時代の人類の行過ぎた快楽主義を問うという内容だった。しかもカラヤンと比較されるのがクレンペラーとケーゲル。読み始めてどんどん引き込まれていった。しかし、この本で使われている言葉、哲学や美学の用語なのだろうが私には一度読んでも意味が酌めずに数回読みかえした文が何回も在った。
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酷評なのか、賛辞なのか、わからなかった。 カラヤンがどんなだか知らないのに読むっていうのが、 最初から無理だったようで、ぱらぱらっと読んですぐに返却。 「どうせ売れないから、好きなこと書いてよいよ」と 編集担当とやりとりしたようで、 存分に好きなように書いてあることは感じられた...
酷評なのか、賛辞なのか、わからなかった。 カラヤンがどんなだか知らないのに読むっていうのが、 最初から無理だったようで、ぱらぱらっと読んですぐに返却。 「どうせ売れないから、好きなこと書いてよいよ」と 編集担当とやりとりしたようで、 存分に好きなように書いてあることは感じられた。
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今まで読んだ中での最凶の悪書。 カラヤンを通じて自分の考えを敷衍してるにすぎないマスターベーション的内容。 おおよそ「新書」のカテゴリーからははずれた随筆ないしはアジビラ的内容。 カラヤンを批判するのはいいが論理が完全に破綻をきたしている。 クレンペラーとケーゲルを称揚するの...
今まで読んだ中での最凶の悪書。 カラヤンを通じて自分の考えを敷衍してるにすぎないマスターベーション的内容。 おおよそ「新書」のカテゴリーからははずれた随筆ないしはアジビラ的内容。 カラヤンを批判するのはいいが論理が完全に破綻をきたしている。 クレンペラーとケーゲルを称揚するのはいいが、それも説得力に欠ける。 難しい言葉を羅列しているが、簡単に書けばよいのだ。 曰く、指揮者、音楽家は通俗的であったはならない。大衆に背を向けろ。大衆の好む音楽をやるな。指揮者自身変わり者であれ。悲劇的であれ。(クレンペラーやケーゲルがそうだからね)。 で、このひと「大衆」が大嫌いである。大衆を無知であると考えている。そういう「無知な大衆」がオレの大好きなクラシック音楽を貶めて汚してるだとの論理である。 それこそ著者が言う、憎むべきファロス中心主義・ロゴス中心主義なんじゃないのか?。 このひと論理を進める中で、自分自身に刃を向けているような気がしてならない。
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