名指しと必然性 の商品レビュー
原著1980年刊。 後期ウィトゲンシュタインの、疑問文だらけの妙に刺激的な思索に惹かれ、言語哲学なるものに興味を持って、その重要論文集というのも読んでみると、もの凄く頭の良さそうな人たちが不思議な議論を展開していた。この「言語哲学」の系譜に連なる重要な哲学者の一人が、クリプキ...
原著1980年刊。 後期ウィトゲンシュタインの、疑問文だらけの妙に刺激的な思索に惹かれ、言語哲学なるものに興味を持って、その重要論文集というのも読んでみると、もの凄く頭の良さそうな人たちが不思議な議論を展開していた。この「言語哲学」の系譜に連なる重要な哲学者の一人が、クリプキである。 読んでみると、独特な専門用語があるものの、理解しがたいということはない。むしろ論旨は明晰であって、難しすぎて頭脳を酷使させられ、眠くなるという現象は起きなかった。非常に明快な文章をたどったという印象がある。 名指されたものの同一性に関することとか、確かに興味深い問題が提示されている。 さらにクリプキの書物を読んでみたいのだが、残念なことに入手可能なクリプキの邦訳本はほとんど無い。
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分析/総合、アプリオリ/必然の区別のところがちょっとよくわからなかった。 非常にまわりくどいというか、予防線を張りまくっているという印象の文体。 もう一回読み直さねば。卒論で使うし
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ソール・クリプキの著書には二冊の有名な邦訳がある。一冊は『ウィトゲンシュタインのパラドクス』、そしてもう一冊がこの『名指しと必然性』だ。またこの本は「可能世界」という言葉が登場することでもよく知られている。 ラッセルvs.クリプキの本と言ってもいいかもしれないし、私たちが現実と...
ソール・クリプキの著書には二冊の有名な邦訳がある。一冊は『ウィトゲンシュタインのパラドクス』、そしてもう一冊がこの『名指しと必然性』だ。またこの本は「可能世界」という言葉が登場することでもよく知られている。 ラッセルvs.クリプキの本と言ってもいいかもしれないし、私たちが現実と呼ぶものと、可能性と呼ぶものとの繋がりを見出す本だとも言えるかもしれない。私たちが生きる現実は<これ>しかないのに、どうやって私たちは可能性を考えることができて、しかもその可能性が、<この現実>の可能性だと言うことができるのか。それがこの本を通じて探求される謎だ。 クリプキはこの謎を追求するために、名前を持ち出す。誰かに、あるいは何かに、名前を付けること。いわば、名づけられている私たちが<この現実>の側の存在で、名前のほうが可能世界の存在となる。 私たちはみんな、名前をもっている。もっているという言い方が気に食わなければ、名前がある、といってもいい。 でも、名前と私たち自身との間には、赤い糸のような繋がりがはっきりあるわけじゃない。あるとき、気付いたら、明日香とか健太とかセバスチャンとかクリプキとかが私たちの名前だった。 どうして私たちはそうやって呼ばれるのだろう。名前と私たちの間にある繋がりは、どうやって保たれ続けているんだろう。私たちが死んだ後にも残されている数々の名前、たとえばプラトンやアリストテレスやソクラテス、ヒトラーに太宰治は、どうして<あの>プラトンや太宰なんだろう。 たとえば、プラトンが『饗宴』を書いたのは確かだとして、それがどうして、私たちの想定している<あの>プラトンだと言えるんだろう。もしかして、全然違う人が『饗宴』を書いて、そしてプラトンは別に存在していたかもしれないじゃないか。 あるいは、『走れメロス』を書いて、本名は津島修治というらしい、入水自殺した人物を、どうやって、私たちが知る太宰治だと確信できるだろう。もしかして、それらすべてを行わなかったにも関わらず、太宰治である人物が存在したかもしれない。 それにそもそも、可能性を考えるとは、何をすることなんだろう。 最初は複雑怪奇なだけに見えるかもしれないこの本の中で、読者は可能性の有様について知る。名指すという行為が可能性の中に入りこむことによって、私たちがこの名前で呼ばれ、そしてかつて呼ばれており、そうでなかったことはあり得ない、と述べることの意味があらわになる。 本書の全体を通して主張はシンプルだが、細部まで見始めるとその多重性にめまいがする。そしてその複雑さが一つの単純な主張に収束していくことに気付いた時の快感は、何物にも代えがたい経験になるはずだ。
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