笑う人間/笑いの現在 の商品レビュー
広告の物語を見るわれわれもまた、読書として小説を読み、観光客にすわって舞台のなりゆきを見まもる観客とは違う。伝統的なフィクションにおいて、観客の主人公に対する反応は、きわだった他者への賞賛や共感にある。共感は、かならずしも「同一化」を意味しない。ハムレットへの共感は、ハムレットと...
広告の物語を見るわれわれもまた、読書として小説を読み、観光客にすわって舞台のなりゆきを見まもる観客とは違う。伝統的なフィクションにおいて、観客の主人公に対する反応は、きわだった他者への賞賛や共感にある。共感は、かならずしも「同一化」を意味しない。ハムレットへの共感は、ハムレットという人物に対する尊敬や同情をもたらすかも知れないが、ハムレットとの同一化の欲求を、かならずしももたらすわけではない。ところで、広告がデウス・エクス・マキーナによって、幸福な笑いのうちに語るのは、世界への商品登場の必然性である。この笑いに呼応し同調するとき、われわれもまた、その必然性をうけいれる。広告がわれわれにひきだそうとする反応は、笑いの同調において、商品のトーテミズムへの参入にある。参入をうながすパトスは、賞賛や尊敬、同情ではなく「キャビン」や「ラッキーストライク」をくわたタフな男や「シャネル五番」のドヌーブといったモデルへの羨望であり、つまりは、同一化という未分化なアイデンティティーへの退行である。われわれは、視線のあるいは笑いのシュミレーションによって、あたかもロールプレイングゲームのように、広告世界に引き入れられるが、そこでの主体としてわれわれがなすべきことはただひとつ、商品名を発話し、これを「買う」ことである。要するに、われわれは観客ではなく消費者なのであり、消費者とは「消費」を唯一の行動様式とするもののことである。広告の物語の言説とは、フィクションの言説ではなく、シュミレーションの言説なのである。 メタ広告=ダジャレ、ナンセンス、ギャグ 広告にとっての問題は、それ自体偶然でしかない商品の、世界への参入の必然性であった。フォト・モンタージュは、並置と同格によって、その空間的必然性を保証し、物語は、場面の連続によって、その時間的必然性を保証した。これに対して、面白広告では、論理的な意味秩序があえてずらされた文脈において、商品名が発話されることによって、その修辞的必然性が保証されるのである。 ダジャレにあっては、意味のつながりではなく、音の等価性ないし類似性が、たとえば「なんである」と「アイデアル」というふたつのことばの結合を必然的なものにしている。これは、ヤコブソンが言語の詩的機能としてあげるもののひとつである。ギャグでは、「オチ」の位置に商品名がくることで、その登場を必然的なものにしている。これとは逆に、ナンセンスでは、文脈とおうむ返しに連呼される商品名とがまったく無関係であることが、かえって、笑いの修辞的な理由となっている。いずれにせよ、こうして生じる笑いの必然のただなかに、商品が登場するということが、眼目なのである。 面白広告は、それが引き起こす笑いによって、商品の効能や広告の言説の信憑性を問う、われわれの側の論理的視点をはぐらかす。こうして商品は笑われるものとして登場するが、しかしこの笑いが嘲笑と排除に至らないのは、まさに商品が仰々しく尊大にではなく、笑われるものとして、われわれの身の丈にあったものであることをアピールするからである。ここにもまた、笑いによって同調を得ようとする広告の戦略は生きている。 そのうえ面白広告は、いわば自己パロディとして、すすんで「広告」自身を笑い物にする。笑うというふるまいは、笑われる対象に対して、一定の距離をとる。広告が自分自身を笑うことによって、それは元来広告が持ち合わせている大言壮語やうさんくささに対して距離をおく姿勢をとる。こうして広告は、消費者同様、自分もまた、広告というものをそれほど「まじめにはうけとってはいない」こと、したがって「自分は、典型的広告のように、大言壮語するつもりはない」ことを表明することが、これによって、かえって自分だけは「正直で、良心的である」ことを主張しようとする。この自己反省的、自己言及的な広告、つまりメタ・広告によって、広告は、自分に対する懐疑や批判すら、広告への言説へと回収しようとする。 広告が多様な言説を弄するのは、モノがあふれ、商品に差異がないからである。 広告が約束する幸福に、消費者が笑いで答えるとき、これによって消費者は、商品をトーテムとする集団にみずからのアイデンティティをかさねあわせる。これは、すでに見たように、われわれの意識の底深くに根ざす一種の退行であるが、そこで笑いの同調は、社会統合のメディアとなる。
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