なぜ日本人は学ばなくなったのか の商品レビュー
学ぶことへの意欲が減ってきているのは、本当にそう思う。 子どもたちを見ていると塾に通っていたとしても "やらされている"感が満載である。 読書量がどれほど大切か。 これが分かるのは読書をしている人だけであって、本に触れていない人は一生気付かない。 知らな...
学ぶことへの意欲が減ってきているのは、本当にそう思う。 子どもたちを見ていると塾に通っていたとしても "やらされている"感が満載である。 読書量がどれほど大切か。 これが分かるのは読書をしている人だけであって、本に触れていない人は一生気付かない。 知らないことを知った時、無関心でいる怖さ。 自分には関係ないと思ってしまう人は自分を含め、たくさんいるんだろうなと思った。 自分のためだけではなく、"人のために"行動できる人は素敵だなぁ。
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主張したいことは分かるが従来からの変化を感覚値で報告しているのみであり、「なぜ~のか」を裏付ける社会構造や社会心理的分析による裏付けが弱い。 良くも悪くも講談社現代新書だなぁという書。
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2022/07/26 齋藤孝さんの本面白い。ただ頭ごなしに勉強しろって言うんじゃなくて歴史も踏まえてメカニズムを解説してくれるからいい。検索万能社会についての文章が自分の核心をつかれてるようでドキっとした、、よし、本を読もうと思った モンスターペアレントとそういう人の他人に対す...
2022/07/26 齋藤孝さんの本面白い。ただ頭ごなしに勉強しろって言うんじゃなくて歴史も踏まえてメカニズムを解説してくれるからいい。検索万能社会についての文章が自分の核心をつかれてるようでドキっとした、、よし、本を読もうと思った モンスターペアレントとそういう人の他人に対する敬意の無さってつながりがあるというのが、なんか自分に身に覚えがありすぎてウッ…となった、、
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現代の日本に対して、何も疑問に思うことなく過ごしてきた若者ですが、齋藤孝さんから見た現代社会は昔と比べると質の低い学力・自己形成力の風潮が漂っているのですね。私は学ぶことを続けたいと更に気持ちを持つことができました。
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教養がいかに大切かが分かった。夏目漱石や、著名人が出てきても、名前は聞いたことがあるで終わってしまう。教養を身につけなくては不味いと思わせてくれる本である。
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多少のデータは用いているものの、著者自身の生い立ちや20年の教員生活といった経験談に基づくものであり、あまり客観性はないのだが、読むべき点がないわけではない。 この種のテーマは格差社会論等で語りつくされているのだが、類書にはない指摘としては二章の「アメリカ化」が興味深い。カウンタ...
多少のデータは用いているものの、著者自身の生い立ちや20年の教員生活といった経験談に基づくものであり、あまり客観性はないのだが、読むべき点がないわけではない。 この種のテーマは格差社会論等で語りつくされているのだが、類書にはない指摘としては二章の「アメリカ化」が興味深い。カウンターカルチャーがメインとする対抗の対象は「伝統的な知」≒ヨーロッパ古典主義であると。そして身体論の隆盛により、理性(中身)より見た目重視となったと。この辺の指摘は昨今の反知性主義にも通じるところがある。 著者は大正教養主義の復興を望んでいるようだが、それは難しいだろう。自由と平等と個人主義、そしてグローバリズムの流れはもはや止める事はできない。変化する時代状況の中で古典だけを読んでいても学んだ事にはならないだろう。他方、昨今は反グローバリズムやナショナリズムが台頭する兆しもある。これらが今後隆盛し、仮に戦前回帰のようになったとしても、復活するのは大正教養主義ではなく、令和風に再構築された新たな教養主義となるのだろう。そして、それを形成していくのは大学教員の仕事である。「学ばない」と嘆くだけではなく、新たな知の体系を構築し、「教える」責任をもってもらいたいところである。
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かつての日本人と比較し、現代の日本人特に若者は向上心、何かに対するリスペクトがなくなり、自発的に学ぶ姿勢が失われ、自分にとって快適な空間、情報にだけアクセスしようとする傾向に筆者は強い危機感を持っている。 この原因の1つにインターネットの普及によって、誰もが簡単に自分が欲しい情報...
かつての日本人と比較し、現代の日本人特に若者は向上心、何かに対するリスペクトがなくなり、自発的に学ぶ姿勢が失われ、自分にとって快適な空間、情報にだけアクセスしようとする傾向に筆者は強い危機感を持っている。 この原因の1つにインターネットの普及によって、誰もが簡単に自分が欲しい情報にアクセスし、知識を得ることができるようになったことが挙げられる。 わたしは日本の高校生が海外の高校生に比べて向上心や出世欲、チャレンジ精神が低く、安定を求める傾向があるというデータが気になった。 生き方の選択肢が増え、自由や多様性が尊重される時代、なんで日本人は安定を求めるんだろう? 誰かがやっているから自分もやろう、自分だけ浮かないように周りを意識して、周りに合わせよう、人と違う道を進むのは怖いという日本人的な思考が影響? プラスそもそも自分が何をやりたいのか分からないという人、夢や目標がない人が増えているような気がする。 筆者も言っていたように学ぶ機会が昔に比べて少なくなった(読書や先輩社員との飲みなど学ぶ機会を自分で作ろうとする人が減った)こと、物質的、経済的に昔に比べて豊かになり、そんなにガツガツ生きなくてもそれなりに生きていれば不便がないくらいの生活ができるようになったことが背景にあると思った。 何かを学ぶことは自分の成長であると同時に、誰かの幸せにもつながる。 やらなくてもなんとかなるけどやったほうが自分のためになるなら例えめんどくさくてもやってみる。自発的に取り入れた知識や経験にこそ価値があると思うし、そうやって得た知識や経験を誰かのために役立てられる大人になりたいと思った。
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明治大学文学部教授の著者が、今の世の中、学習をしない若者達へのメッセージ。もっと、みんなで考えてみよう!というメッセージ。
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2008年5月20日 初版 教育に関わる知識人として有名な斎藤孝氏。 タイトルを見てまず気になったのが「学ぶ」という言葉の定義である。 著者は現代の日本人を「学び嫌いの日本人」としてその中身を「学ぼうとせずに、ひたすら受身の快楽にふけるあり方」としている。 確かに多くの日...
2008年5月20日 初版 教育に関わる知識人として有名な斎藤孝氏。 タイトルを見てまず気になったのが「学ぶ」という言葉の定義である。 著者は現代の日本人を「学び嫌いの日本人」としてその中身を「学ぼうとせずに、ひたすら受身の快楽にふけるあり方」としている。 確かに多くの日本人がそういった「消費」に飲み込まれているわけだが、それが日本の消費を支えている、という事は重要な点であろう。 また、全ての日本人がそのような学び嫌いというわけではないはずだ。ネットをフルに活用して10年前の日本では得ること無い知識をどん欲に吸収して、またそれを発展させている日本人もいるだろう。 そして、勤勉な日本人という姿が存在した日本においても勤勉な人、そうでない人はいたはずだ。であれば、現代においてそれを嘆くというのはすこし方向が違うような気がしないでもない。 昔の日本にいては「末は博士か大臣か」なんて言葉があったが、それはそのポジションに至ればリスペクトを得られるという確証に近いものがあったから生まれた言葉だろう。生活の安定もほぼ確約されたようなものだ。 しかし、今の大学院から生み出されている博士たちは、就職先すら二人に一人しかみつからない状況である。果たしてそれを目指して黙々と勉強をすることが有利な選択と言えるのだろうか。 序章でも指摘されているが、インターネットによる情報アクセスのフラット化によって知りたい人はよく知れる環境が出来ている。そのことによって格差も生まれるだろう。それは悪い状況なのだろうか。 今の社会で階段を上の方まで上っていくというのは相当に厳しい競争に晒されるということだ。 そういった競争から一歩離れたところで生きたいと願う人もいるだろう。 適切にチャンスをゲットし、成功する人間が多数生まれてくれば、それに続く人間もその生き方を模倣していくだろう。いわば現代はまだ過渡期に過ぎない段階だ。 このような状況で昔の日本を参考に未来を語ってもあまり意味はないのかもしれない。 確かに教養深く知識に通じている人間は魅力的である。しかしそれで食事にありつけるかというか、なかなか難しいのが今の日本である。「博士号を持っている人間は扱いづらい」と企業の採用担当者が平気でこぼすような時代なのだ。 確かに「学び」ということは人間が生きていく上で必要だろう。問題はその「学び」とは一体なんなのか、ということが今の日本でははっきりしていない、ということだ。 何を学べば良いのか、若者に適切にフォローしてあげら得る人が少ない、という社会構造的な問題が著者をいらだたせている原因であると思う。
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青木育志さんの『教養主義者 河合栄治郎』で、「教養主義論争」の一角を担うものとして名前が挙げられていたから手に取った。もっともこの教養主義論争なるもの、どこで行われているのかよくわからないし、べつに「論争」ではないのではないか。それに斎藤は教養ものはほかにもたくさん書いているし、...
青木育志さんの『教養主義者 河合栄治郎』で、「教養主義論争」の一角を担うものとして名前が挙げられていたから手に取った。もっともこの教養主義論争なるもの、どこで行われているのかよくわからないし、べつに「論争」ではないのではないか。それに斎藤は教養ものはほかにもたくさん書いているし、『「文系力」こそが武器である』とかもある。まあ本書は2008年だから、そんなに本を出しまくっていたわけではないのだろうか。目新しい記述はなし。
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