時間と自己 の商品レビュー
「こころの病に挑んだ知の巨人」 (ちくま新書)を読んで木村理論を知りたくなって購入したものの、私には難しかった。 最後のあとがきの言葉が、気になって頭から離れない。どういう意味なのか? 私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の...
「こころの病に挑んだ知の巨人」 (ちくま新書)を読んで木村理論を知りたくなって購入したものの、私には難しかった。 最後のあとがきの言葉が、気になって頭から離れない。どういう意味なのか? 私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。 夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、去年と今年のあいだ、そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないのか。 あとがきに、この文章を入れた木村敏さんの意図、わからない。これは禅の公案かもしれない。
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「永遠のドストエフスキー」(中公新書)を読んで、精神疾患に時間感覚が関係することが分かった。積読本を整理中にパラ見をしたら、関連部分があるので読むことにした。 「今」との関係が、精神疾患の現れ方を決める。時間と精神疾患について「こと」と「もの」を着眼点に展開される。 「私」という...
「永遠のドストエフスキー」(中公新書)を読んで、精神疾患に時間感覚が関係することが分かった。積読本を整理中にパラ見をしたら、関連部分があるので読むことにした。 「今」との関係が、精神疾患の現れ方を決める。時間と精神疾患について「こと」と「もの」を着眼点に展開される。 「私」ということは、私にとって取扱注意(不自由)かと思った。
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使われている精神医学の用語や内容は、本書が書かれた1982年当時のものであることを前提として読む必要がある。それでもなお、思弁的のみならず、臨床的にも示唆に富む本だと感じた。臨床場面で患者さんと接しているときに、自分自身の時間感覚も同調しているように感じることは多く、一日の臨床の...
使われている精神医学の用語や内容は、本書が書かれた1982年当時のものであることを前提として読む必要がある。それでもなお、思弁的のみならず、臨床的にも示唆に富む本だと感じた。臨床場面で患者さんと接しているときに、自分自身の時間感覚も同調しているように感じることは多く、一日の臨床のなかで、時間の流れは一定ではない。患者さんのためにも、医療従事者が己を知り守るためにも、ここに書かれているような内容を知っておくことは有益だと思う。
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冒頭の我々の周りの「もの」と「こと」の解釈から引き込まれた。 そこから精神病への展開は難解で、一回読んだだけでは理解が追いつかないが、とても興味深い。 そして最後のまた映画のマトリックス的な自身の他者性についても、共感できるところも。
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あとがきにある「人生をひとつの夢として夢見ているような、もうひとつ高次の現実が私たちのすぐ傍らに存在しているらしいということだけは、真理に対して謙虚であるためにも、是非とも知っておかなくてはならないように思う」という言葉、なぜか『鋼の錬金術師』を思い出させる。 また、「夜、異郷、...
あとがきにある「人生をひとつの夢として夢見ているような、もうひとつ高次の現実が私たちのすぐ傍らに存在しているらしいということだけは、真理に対して謙虚であるためにも、是非とも知っておかなくてはならないように思う」という言葉、なぜか『鋼の錬金術師』を思い出させる。 また、「夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの『だれか』をいつも以上に身近に感じとっているはずである。(…)「時と時とのあいだ」のすきま(…)に見えてくる一つの顔(…)の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてき(…)、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないか。」という文章、小さい時から居間に一人で横になっているときに感じた感覚とも似ていて、サブイボが立つのを感じた。 時間ってなんだろうという興味から以前に岩波の緑表紙の『時間』という本を手に取って読んでみたが、哲学書すぎて意味がわからず手放した。その経験から一応中身はさっとでも読んでから買おうと思い、さっと読んで買ったつもりだったが、思っていた内容とは違っていた。笑 違っていたが、これはこれで面白かった。
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精神病患者の精神世界から、人間の時間と自己に対する認識について書かれた本。過去・現在・未来の捉え方、時間概念は全ての人、時代、世界に等しいものではない。 やや難しく感じたので、また読み直したいと思う。
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分裂症やうつ病などの症状を、時間と自身の在り方から捉えてみることができるという考え方をこの本で初めて知った。 本書の中で、"もの"と"こと"は区別され、本質的な"こと"について考えようと思うことで、"もの&q...
分裂症やうつ病などの症状を、時間と自身の在り方から捉えてみることができるという考え方をこの本で初めて知った。 本書の中で、"もの"と"こと"は区別され、本質的な"こと"について考えようと思うことで、"もの"となってしまうため、健常な状態では"もの"と"こと"を区別することはできない。ということと、「言葉」の「言(こと)の葉」という成り立ちをみるに、言葉は"こと"の一側面しか表現しえないということころが、特に印象に残っている。 うつ病者は自己同一性と役割同一性の区別が上手く機能していないという記述にはなるほど、、、と思いながら読んだ。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
非常に面白かったし、こんなに豊かなものを人は書けるのだなということに感動して、充実した読書時間になった。 ペンを持っていることは、ペンなしでそのことを感じることができないというように、「もの」なしで「こと」は成立し得ないということを前提として、精神病者の時間がどのように成り立っているのかを論じている。それは健常者とは別のもののよううに私たちは考えるのだが(もちろん実際そうとも言えるのだが)、精神病者/健常者として最初から区別できるような絶対的な特徴はない。誰にでも時間の変容が起こりうるし、身近にある問題である。その意味で、この本は誰に対しても開かれているものであるし、また時間や自分自身について考える良い機会を与えてくれている。
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時間を見るときは、時間そのものではなく、いつまでに何分たったまでの、時間のあり方を見ている。 すべてのものは何らかのこと的なあり方をしている。 存在者の存在と、あるということそれ自体には根本的な違いがある。 自己の自己性とは、自己自身による自己認知なのである。 主語的自己と、述語...
時間を見るときは、時間そのものではなく、いつまでに何分たったまでの、時間のあり方を見ている。 すべてのものは何らかのこと的なあり方をしている。 存在者の存在と、あるということそれ自体には根本的な違いがある。 自己の自己性とは、自己自身による自己認知なのである。 主語的自己と、述語的な私。 鬱→メランコリー型→真面目な人に多い。 →インクルデンツ(秩序の中に自分を閉じ込める)、レマネンツ(負い目を負う) →所有の喪失 役割同一制 癲癇→アウラ体験:主観的で絶頂的な発作。現在が永遠に思える。 →現在が永続的かつ、それだけで満たされている状態。 アフリカ→時間の感覚:ササとザマ二のみ ササ→生きられる現在 ザマ二→恒久的で全てを飲み込む過去 現状を維持するために未来を見るか、現場から逃げるために未来を見るか 時間が時間として流れている感覚と自分が自分として存在していると言う感じは同じ 現在の一瞬は人間が永遠の死と真正面に向き合って存在の充満を生きる輝かしい瞬間 人間に関するいかなる施策は死を真正面から見つめたものでなければいけない 私たちは時間を色付けて生きている。
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クリシュナムルティの参考文献として紹介しよう。木村の文章が苦手である。思弁に傾きすぎて言葉をこねくり回している印象が強い。ドイツに留学したせいもあるのだろう。西洋哲学も同様だが思弁に傾くのは悟性が足りないためだ。 https://sessendo.blogspot.com/202...
クリシュナムルティの参考文献として紹介しよう。木村の文章が苦手である。思弁に傾きすぎて言葉をこねくり回している印象が強い。ドイツに留学したせいもあるのだろう。西洋哲学も同様だが思弁に傾くのは悟性が足りないためだ。 https://sessendo.blogspot.com/2020/04/blog-post_9.html
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