なぜ、植物図鑑か の商品レビュー
東京都写真美術館で現代の写真の解説って哲学や思想に近いのね難しいなあと思いながら見ててそこのミュージアムショップで見かけてうっかり買った本。文字を辿り自分なりに理解しながら読み進める。当然読みおわらないので別の日に続きから読む。その時には前回の内容をすっかり忘れてるから戻って読む...
東京都写真美術館で現代の写真の解説って哲学や思想に近いのね難しいなあと思いながら見ててそこのミュージアムショップで見かけてうっかり買った本。文字を辿り自分なりに理解しながら読み進める。当然読みおわらないので別の日に続きから読む。その時には前回の内容をすっかり忘れてるから戻って読む。全然進まない 笑 写真を撮ることをなぜ語るのか、写真と世界と自分の関係をどう捉えているのか。吉川知生の「今その溜め息を、あなたは迸り出る流麗な語りに置き換えようとしているのではないでしょうか。」批判に対する弁明()が小難しすぎて概念を絶妙に言語化するのと言葉を弄ぶのが紙一重に感じる。それでも全体像は掴めなくても著者の思想が読み取れる端々はなるほどと何かが見えた気がするし、大学入試の制限時間や「解答」を気にせず読める歳になってから読めて良かった。 p20そのさらに向う側に拡がる未知の世界が偶然にも発してくる象徴(くどいようだがそれら私の捕えた世界の意味の象徴とは逆転した位置にあることは言うまでもない)を受けとろうと待ち構えることである。
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写真家・中平卓馬の写真、映画、テレビなどを含む映像論集。 書かれた時代を反映して、左寄りでかなりラディカルな部分もあるけれど、「表現」としての写真を考える上では示唆に富んだ本ではなかろうか。
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端的に言えば、写真から情緒や自我を排除して、冷徹にあるがままを淡白に写せばよい、という方向性を表明している。図鑑の写真のように「悲しそうな」とか「華やかな」などの感情や作者性などを持ち込むのをやめたいという欲求。とは言え、自身の周辺や経験、現代思想からの影響、自分語りなどの紆余曲...
端的に言えば、写真から情緒や自我を排除して、冷徹にあるがままを淡白に写せばよい、という方向性を表明している。図鑑の写真のように「悲しそうな」とか「華やかな」などの感情や作者性などを持ち込むのをやめたいという欲求。とは言え、自身の周辺や経験、現代思想からの影響、自分語りなどの紆余曲折も絡めたエッセイであり、写真論にまで昇華されていない印象がある。つまりこの本そのものが、中平卓馬自身のエゴの表出に留まってしまっている。口上は無用、無言でシャッターを押せ、と言いながらも長い長い説明をせずにはいられない。しかしその数年後、皮肉にも思わぬ形でその思いは成就されたのかもしれない。特異な一生だったのだ。
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例えば日本でいえばモノ派であったり、海外であればミニマリスムがそうだったと思うが、そうした60年代から70年代のアート・シーンにあって、「〜そのもの」あるいは「あるがまま」を求める姿勢が前景化してきた。Not Art But Work、という標語が字義通りの意味で読まれなければな...
例えば日本でいえばモノ派であったり、海外であればミニマリスムがそうだったと思うが、そうした60年代から70年代のアート・シーンにあって、「〜そのもの」あるいは「あるがまま」を求める姿勢が前景化してきた。Not Art But Work、という標語が字義通りの意味で読まれなければならないのは、まさにこの時代からだ。ArtをArtたらしめるそれを中平は〈手〉に象徴させ、この〈手〉が〈イメージ〉や〈詩〉を生み、「あるがまま」のそれをArtへしてしまう。しかしそれはもう不可能性なのだ、と決別するのが中平である。では中平は当時の新たな潮流にそのまま呑まれてしまうのだろうか。いや、彼が「真の幻想性は物の側にある」と語るとき、あるいは〈映像言語〉なるものを批判するとき、それは実にアクチュアリティをもって木霊してくるのではないだろうか。
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暴力的ですらあるが、あとがきにあるように、『この通りの写真なんか簡単に撮れない』し、『自分をがんじがらめにして』いる。 ツッコミどころは多々あるが、もがき苦しみ、産んでいく人がいた。
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初めて中平氏の写真を見たときに この人の写真を一生追い続けるのだろうなと思った。 何をしているか何を意味しているか全く分からない写真にも関わらず、凄みや清々しさを感じたのだ。 写真とは現実から一部を引用し、また現実へと返して行く行為。
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