母よ!殺すな の商品レビュー
横塚氏や青い芝の会の中核の考え方として、 - 障害者と健全者は明確に「違う」ということから目を背けない - 働いて社会に経済的な価値を生み出すことが社会参加のために必要である、という考え方を否定する - その人がありのまま生きていることを肯定する - 問題提起をして、「じゃあどう...
横塚氏や青い芝の会の中核の考え方として、 - 障害者と健全者は明確に「違う」ということから目を背けない - 働いて社会に経済的な価値を生み出すことが社会参加のために必要である、という考え方を否定する - その人がありのまま生きていることを肯定する - 問題提起をして、「じゃあどうすればいいか」という解決には簡単に関わらない、問題を提起し続けるというスタンスをとる というようなことが印象的だった。 社会の中で意見をぶつけ合うという営みにおいて、ある意味極北というか、動かないことそのものが大事であるという立ち位置をとっていたような印象。 相対する立場になって付き合っていくことは非常に疲れるし、同意しきれないことも多くなるだろうが、社会全体の中ではそういうポジションを取る人たちが声をあげてきたことを記憶と記録に留めておくことは大事だと思う。 障害者が健全者の価値観のなかで迎合していくことを「障害者の自己喪失」と呼んでいて興味深かったが、自己を強く持つということは、どんな時代どんな立場でも、簡単ではないのかもしれないなと、連想して感じた。
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自分の欠けている視点や自分でも気づけていなかった偏見を突きつけられた。 この本がきっかけで今は社会福祉、障害に関する勉強をしている。
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1970年5月の横浜。重度の脳性麻痺児ふたりを抱える母親が、 2歳の女の子の首をエプロンのひもで絞めて殺害した。 殺人者となった母親に対し、ほどなく減刑嘆願の運動が起きた。 メディアも母親に同情的であった。曰く、日本の福祉行政の不備 の為に起きた悲劇である…と。 こ...
1970年5月の横浜。重度の脳性麻痺児ふたりを抱える母親が、 2歳の女の子の首をエプロンのひもで絞めて殺害した。 殺人者となった母親に対し、ほどなく減刑嘆願の運動が起きた。 メディアも母親に同情的であった。曰く、日本の福祉行政の不備 の為に起きた悲劇である…と。 これに真っ向から異を唱えた人たちがいた。「青い芝の会」。自ら も脳性麻痺者である人々の団体は、障害を理由に殺された側の 人権は無視されるのかと訴えた。 その中心人物でもあるのが、横塚晃一氏である。1978年に胃がん により死去しているが、彼が生前に「青い芝の会」機関紙などに 書いた文章をまとめたのが本書である。 長らく絶版であったが2007年に版元を変えて復刊。1970年代の 障害者運動を知るためのバイブルでもある。 障害者も一人の人間である。横塚氏が一貫して訴えているの はこれに尽きるのだと思う。だから、障碍者の自立を目指すの でもあると思う。 70年代は60年代の政治の季節を引き摺った時代だ。今の時代に 読むと横塚氏の主張は時にエキセントリックで、健常者との対話 では喧嘩腰てもある。そこに多少の違和感を持つのは、私は私 の立場でしか物事を考えられないからだと思った。 障害者は障碍者の、健常者は健常者の。そして、個人がそれぞれ に置かれた状況でしか物事が見えないことがある。その壁を超える のは非常に難しいことではないだろうか。 ただ、横塚氏たちが優生保護法改正で障害を持って生まれて来るで あろう胎児を間引くことに大反対したように、私は現在の出生前診断 には危惧を覚える。 命の選別を、人間がするべきではないと思うから。 完ぺきとは言わないまでも、1970年代から比べたら社会のバリア フリーは徐々に進んでいる。それも、横塚氏たちの障害者運動が あってこそだろう。 障害者だろうが健常者だろうが、誰もが持っているものがあると 思う。人間の尊厳だ。それを忘れた時、ナチス・ドイツお障害者 殺しや、津久井やまゆり園の事件のようなことが起きるのでは ないだろうか。
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障害児が母親に殺されるたびに地域で起こる減刑嘆願運動。地域の人たちに母親の減刑を願う資格はあるのか。当事者の視点で鋭く問う。 大分大学 教育福祉科学部 (分野 社会福祉学) 教員 廣野 俊輔
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横塚晃一氏の著書「母よ!殺すな」(生活書院)。 この本は、障がい者について書かれた固めの本を読むと、必ず「参考文献」の欄に登場していました。 とてもインパクトのあるタイトルなので記憶に残り、 「障がい者運動の歴史において、とても重要な位置づけにある本なのだろう」。 「きちん...
横塚晃一氏の著書「母よ!殺すな」(生活書院)。 この本は、障がい者について書かれた固めの本を読むと、必ず「参考文献」の欄に登場していました。 とてもインパクトのあるタイトルなので記憶に残り、 「障がい者運動の歴史において、とても重要な位置づけにある本なのだろう」。 「きちんと読んでおいたほうがよいにちがいない」。 と思って購入していたのですが、しばらくの間、机の上に「積ん読」状態になっていました。 タイトルからとても重い内容を想像してしまい、手にとるには気合いが必要だったのです。 自分の元気がないと読み通せないような気がして、気楽に読めそうな他の本に浮気をしてしまい、読むのを後回しにしていました。 でも、やっぱり、手に取ろう! ようやく決意して読み始めたのですが、「もっと早く読んでおけばよかった!」と思いました。 想像していた暗さを感じることはなく、生きることに対するとても強烈なパワーを感じさせられたからです。明るさ、清々しさ、もあるかもしれません。 この本に収録されている横塚氏の発言は、1970年代前半にされたものもあります。 しかし、 障がい者として生きること、 障がいのある人とない人(健全者)との関係、といったテーマは、 時代や社会が変わっても、決して古くないのです。 「今、ここ」で考えなければいけないものだと思いました。 横塚氏は、「我が子の五体満足を願うのはエゴイスティックな愛といわれようとも、親として偽らざる思い」という手紙を書いた婦人に宛てた返信の中で、次のように綴っています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分よりも重い障がいの人を見れば「私はあの人より軽くてよかった」と思い、また知能を侵されている人を見れば「自分は、体は悪いが幸いあたまは…」と思うのです。 なんとあさましいことでしょう。そのように人間とはエゴイスティックなもの、罪深いものだと思います。この自分自身のエゴを罪と認めることによって、次に「では自分自身として何をなすべきか」ということが出てくる筈です。お互いの連帯感というものはそこから出てくるのではないでしょうか。 まして、我々障害者とそうでない人との交わりとは? 障害者福祉とは? ひいては人間関係のあり方とは? 先ず自分が罪人であると認めるところから出発しなければならないと思います。その根底に自分の罪悪性を省みることがない限り、そこから出発した障害者福祉とは、強者の弱者に対するおめぐみであり、所謂やってやるという慈善的官僚的福祉とならざるをえないでしょう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 読んで、少し考えてみました。 人は誰でも、自分のことが大事だと思います。 より良い状態でいたい、満足したい、楽しみたい、という欲求があると思います。 その欲求を満たすために、他人と比べて「自分のほうが良い」とか「自分のほうがマシ」と感じていることもあるはずです。 障がい者だけでなく、最近では、東日本大震災の被災者に対する支援にも通じることだと思いますが、何かをして「あげる」というとき、その背景には、とてもエゴイスティックな感情、罪悪性があるのです。 それを自覚しておかないと、「何かしてあげる」の「何か」は、される側にとって抑圧的なものになりそうです。 もう少し、考えてみると、 障がいのある人、ない人の関係だけでなく、 親子、恋人、友達関係など、すべての人間関係の背景には、自分の欲求を満たそうとする人同士の力関係の「争い」があるといえるのかもしれません。 「○○してほしい」「▽▽であってほしい」「□□すべきだ」。 親が子に、思いを寄せる男・女に、親しくしている友達に、お互いに、何かを求めていると思います。 欲求と欲求のぶつかり合いのなかで、互いに折り合いをつけられれば関係を続けることができますし、切っても切れない関係では、どこかで折り合いをつけなくてはなりません。 でも、ときに、自分が求めるものが得られず、空しくなったり、欲求のぶつけあいの争いに疲れたりすると、相手と関わることさえ苦痛になり、相手から逃げたり、距離を作ったりするのでしょう。 私自身、本当にエゴだな。って思います。 それを自覚して、他人との関係をどうするか? ですね。 一人で生きていくことはできないし、独りでは寂しいから。
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