土星の環 の商品レビュー
絶版で、中古は10K円超えなので、手が出ない。Kindleで英語版を読もうと試みたが、内容がまるで頭に入らない。別に自分の英語能力に自信があるわけでもないが、ここまで英語読めなかったっけ?と。図書館で日本語版を借りて読んで、これでは英語で読んで理解できなくても無理はないと思った。...
絶版で、中古は10K円超えなので、手が出ない。Kindleで英語版を読もうと試みたが、内容がまるで頭に入らない。別に自分の英語能力に自信があるわけでもないが、ここまで英語読めなかったっけ?と。図書館で日本語版を借りて読んで、これでは英語で読んで理解できなくても無理はないと思った。でも、一度日本語で読めば、英語も多少は読みやすく感じるかもしれない。この淡々として入り組んだ文章、美しい諦念が心地よく、手元に置いておきたい。英語版も再挑戦しよう。
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このような書物は、何と呼称すればよいのだろう? もちろん、旅をしながらのエッセイではあるのだが、著者がその旅で訪れた場所から連想されることが、ひとつの物語のようになっていて、まるで小説を読んでいるかのような錯覚に陥る。 その連想されていることが、特に後半の歴史上の出来事についての...
このような書物は、何と呼称すればよいのだろう? もちろん、旅をしながらのエッセイではあるのだが、著者がその旅で訪れた場所から連想されることが、ひとつの物語のようになっていて、まるで小説を読んでいるかのような錯覚に陥る。 その連想されていることが、特に後半の歴史上の出来事についての記述は、思わず襟を正して読むような内容であり、著者の深い学識に裏付けられた、人間社会への大いなる警鐘となっているように感じられる。 異色の旅の記録である。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
最近読んだ本のなかで、一番美しい本でした。 『アウステルリッツ』も良かったけれど、『土星の環』はさらに良かった。 紀行文の体裁と、話を雑談のようにずらしていくゼーバルトの方法がマッチしているように感じました。 イギリス行脚とはいうものの、『闇の奥』で有名な作家コンラッドの半生や中国の西太后の最後など、連想は世界を駆け巡っています。 ときにはクロアチアによる民族浄化作戦やベルギーによるコンゴ収奪など、文明の残酷な顔を暴きつつ、滅んでしまった人、街、自然がノスタルジーとともに見事に表現されていました。 容赦ない運命の力に押しつぶされるものたちのエピソードが、土星の環の衛星のかけらのように、本書を構成し、彩っています。 この本は、著者がイギリスを徒歩で廻っているように、 ゆっくり味わいながら読むのがいいと思います。 性急に答えを求めたり、カタルシスを求めて読むと、 逆に本書を読む楽しみを減じてしまうでしょう。 (自分も恥ずかしいくらい時間をかけて読みました・・・) 余談ですが、『闇の奥』、いまだに読んでなかったな…。
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管啓次郎先生が「読売新聞」2012年8月5日付で 紹介していました。(読書委員が選ぶ「夏の1冊」) 【痺れるほどの寂寥感を味わってください。】 (2012年8月5日)
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永い彷徨は、唯一、残された解決策だ。 高校の教室。机。目の前の黒板。教師が高いところから声を上げる。昨日の宿題はやってきたか、と。 何を覚えたって役には立たないよ、と生徒たちは声をそろえる。でも、役に立てる場所にだって立った事はなかった。 毎日繰り返される授業が嫌だった。そのた...
永い彷徨は、唯一、残された解決策だ。 高校の教室。机。目の前の黒板。教師が高いところから声を上げる。昨日の宿題はやってきたか、と。 何を覚えたって役には立たないよ、と生徒たちは声をそろえる。でも、役に立てる場所にだって立った事はなかった。 毎日繰り返される授業が嫌だった。そのたびに、晴れや、曇りや、雨や雪を見ていた。 窓際の電気ヒーターが眠気を誘う。寒い日の午後だった。雪が、降っているような気分で、目と鼻の境目を強く押す。 教師は、もう一度大きな声で何か言った。大切なことだったかもしれない。けれど、教室で放たれた言葉に、どんな需要があるというのだろう。 チャイムが鳴り、廊下へでる。もう一度、目的地を確認するように立ち止まる。水場の窓からは、懐かしい、と思い出すことになるグランドの景色。 夕焼けを、思い出すことになる。赤い部室に寝転んだ先輩の横顔を。それから、砂利道を自転車で帰る、スカートが風で揺れる様。 汚い川に跳ねる鯉が、夕焼けに反射する。その景色。 衰退する景色は、湿っぽく暗い。文明に置いてかれる街並みは、再び、立ち止まるための契機かもしれない。それでも、立ち止まれはしない。 永い彷徨に終わりはないだろう。 「やがて店は開くだろう。そこから家に電話して、車で迎えに来てもらえばいい。」 やがて、高校のチャイムは鳴る。再び授業が始まる。どこかへ戻る手はずは既に整っているはずだ。
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「もしかしたらわれわれはみんな、自分の作品を築いたら築いた分だけ、現実を俯瞰できなくなってしまうのではないか。だからきっと、精神が拵えたものが込み入れば込み入るほどに、それが認識の深まりだと勘違いしてしまうのだろう。」 ゼーバルトの本を読んでいつも思う、どこまでが本当のことで...
「もしかしたらわれわれはみんな、自分の作品を築いたら築いた分だけ、現実を俯瞰できなくなってしまうのではないか。だからきっと、精神が拵えたものが込み入れば込み入るほどに、それが認識の深まりだと勘違いしてしまうのだろう。」 ゼーバルトの本を読んでいつも思う、どこまでが本当のことでどこからが作り話なのだろうか、と。ある出来事、あるいは人物についての連綿とした記述が続いていく。と、とある単語に端を発してそこから百科事典的記述が逸脱気味に始まると、いつの間にか文章の対象とするものの主従が逆転し、自分がいったい何について、あるいはどこの誰の話を読んでいるのかが解らなくなるのだ。但し、その逸脱の瞬間を見極めようと思っても無駄であるように、事実と創造の境を見定めようとしても意味はない。それどころか、ゼーバルトが描くのは、可能性、という視点において全て事実であるとも、全て創造であるとも言える。 そもそも歴史的事実などというものは客観的事実ではなく解釈に過ぎないのだ。ある出来事がどのようにして起きたのか、結果どのような意味を残したのか、というような疑問は、当事者としての観点からは理解し得ないメタな視点からのみ質され得る。であるからその出来事の当事者にとってさえ、その疑問の「正しい答え」などは語りえないと思うのである。そうであれば、ゼーバルトの描き出している、こことそこの時空間を越えた繋がりは一つの読みとしてあり得るといってよいと思う。しかも彼の巧みなところは、後世の人としてメタな視点を提供しながら、当事者としての視点へ詳細に移行していくところである。そんな視点の差を意識してしまうと思わずゼーバルト語りに引き込まれてしまう。 そもそもそんなことに拘ってしまうこと自体が野暮なことだとゼーバルトは言うかも知れない。全ては創造の中の話としてしまって構わないのだと。そんなことは気にせずに読めばいいのだと。そのようなユーモアとして読めばいいのだと。 確かにユーモアはそこかしこに感じられる。しかしそこには常に何か一つ共通した強い訴えが感じられるのである。その一つの視点に立った解釈に過ぎなくとも、事実はそうであったのではないかと思わせる何かが訴えられているように思うのである。夥しく投入される写真はあたかも証拠写真のようにもとり得るし、その影の濃い写真はゼーバルトが常に維持している一つの視点から得た解釈を、あるいは何か人間の本性そのもののへの疑問を提示するようなメッセージが伝わってくるように思えるのだ。 その人間の本性への疑問が戦争が引き起こした惨事に深く根ざしていることは確かだと思う。大した言及もないにも係わらず見開きいっぱいに掲示される累々とした屍の写真など、その最たるものだ。以前どこかの解説で読んだように記憶しているが、ゼーバルトの文章に創作はあっても写真に創作はないのだという。だからこそ、写真がまたゼーバルトの描き出す世界の下支えになっていること、そして直接間接に読者が受け取ってしまう強いメッセージの元にもなっているのだと思う。 「わたしたちがそのときいた部屋の前に伸びる廊下の奥に、と語り手は続けている、楕円形をした半曇りの鏡が掛かっていて、そこからはどことなしに不穏な空気が漂ってきていた。わたしたちはこの物言わぬ目撃者に様子をうかがわれているように感じ、−−深夜には避けられない発見だが−−鏡には妖怪めいたものがあることに気がついた。するとビオイ=カサレスが、鏡と交合は人間の数を増殖させるがゆえにいまわしい、と言ったという、ウクバールの異端の教祖のひとりのことばを思い出した。」 自分の心にふたをしながら読み進めないと、いつまでもいつまでも尋ねられてさえいない問いに答え続けて、先にページを繰ることができない、それがゼーバルトを読むということなのである。
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