塩の道 の商品レビュー
表題の「塩の道」は…
表題の「塩の道」は、信濃の山間部において、人々が「塩」を入手するためのドラマを描く。塩というものが山間部ではいかに貴重であったかが分かる。塩の運搬に牛を使った、塩サケは保存食というより塩のために購入した、など意外な事実が明らかにされる。宮本民俗学の入門編としてもおすすめ。
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飯田街道の宿場町の一つ足助の一角に昭和5年からあるとゆうマンリン書店、江戸時代は呉服屋だったようですが、漆喰と黒板壁の美しい本屋さんです。雑誌とかコミック類は置いてないのですが、アンティークな店内に実用書、郷土史、絵本にこだわった棚揃えが魅力的、カフェやギャラリーも併設しててくつ...
飯田街道の宿場町の一つ足助の一角に昭和5年からあるとゆうマンリン書店、江戸時代は呉服屋だったようですが、漆喰と黒板壁の美しい本屋さんです。雑誌とかコミック類は置いてないのですが、アンティークな店内に実用書、郷土史、絵本にこだわった棚揃えが魅力的、カフェやギャラリーも併設しててくつろげて本好きにはたまらない空間だと思います。 そんなセレクト系の本屋さんで購入した1冊。 民族学の宮本常一氏最晩年の『塩の道』とても興味深く拝読させていただきました。 ここでは、足助に関する記載をピックアップします。 江戸時代は海水から塩を作り山間部へと運ぶ街道が整備されて中継地として足助に集めらた塩が中馬にて信濃方面に輸送されたそうで塩尻とゆうところが終着点。 中馬とゆうのは宿場で馬を替えずに目的地まで輸送する方式で荷崩れせず、手間賃も大幅に削減できるメリットがあるのですが当時は宿場ごとに荷を下ろし馬を替えて輸送するとゆう伝馬制があり、近隣の宿場も潤った訳ですが、飯田街道に関しては割りと緩やかだったようです。 中馬の数を藩に届ける必要があったようですが。公式数より何倍も多く馬を三河高原の山中で飼っていたとか。 今は植林で眺望もよくないのですが明治頃までは牧草が育つように春先に大規模な山焼きをしてたそうです。 とゆうことは見晴らしも良くって、晴れ渡った日には恵那山や、中央アルプス、南アルプスに富士山の頭とかも見渡せたのではないかと思うと嬉しくなりました。 もう一つ印象的だったのは、塩には霊が宿らないとゆう言葉。食することでエネルギーをいただくわけですがそれは生物の霊をいただくって考え方もあるようです。塩分は人体に欠かすことのできないものですが栄養はなく消化を助けたり体調を整えて排出されるもの。 除霊に持ちいたりするのもそんなところからきてそうですね。 もう1冊マンリン書店さんから出版された『足助の昔話』を購入したんですがバーコードついてなくってブクログに登録できないのが残念でした。
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読みやすい文章 商圏や文化圏が どう伝わって どう広がっていったか イメージしやすく 分かりやすい それにしても ほんの少し前の世代の話なのに 全く知らない事が多い そういう情報が 途絶えてしまっているのは 悲しい事だ とよたブックマーケット内 積ん読屋にて購入
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宮本常一氏の晩年の講演をまとめた一冊。「塩の道」「日本人とたべもの」「暮らしと形の美」の三篇を収録。 日本全国を歩き回って得た知識を縦横無尽に駆使して、新たな宮本常一ワールド紬上げる、魔法のようです。
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日本の文化や歴史を、庶民の生活の視点から調べてまとめてある本は、とても貴重で、興味深かった。 ・確かに塩はどこでも採れるわけではないけど、人体に必要不可欠であり、ないと生きていけない。当時の流通網を調べるには、とてもいい糸口だと思った。 ・日本の人口は中国などと比べて、過去二...
日本の文化や歴史を、庶民の生活の視点から調べてまとめてある本は、とても貴重で、興味深かった。 ・確かに塩はどこでも採れるわけではないけど、人体に必要不可欠であり、ないと生きていけない。当時の流通網を調べるには、とてもいい糸口だと思った。 ・日本の人口は中国などと比べて、過去二千年の間に大きな増減をすることなく、緩やかに増え続けてきた。戦争をする者/食糧を生産する者が分けられていたからだ。 ・日本の食糧自給が安定していた理由として、民衆が戦争から離れたところに存在していたことがあるが、民衆の生活の工夫が続けられてきたことも大きい。 米だけではなく、その土地の特徴に合わせて新しい作物を民間レベルで積極的に受け入れてきたこと。 トチやドングリなどの実のなる木を代々管理し続けて飢饉を乗り切ったこと。 山間部で発達した発酵食品などの保存食の知恵などなど…長い間、民間で繰り返されてきた努力と工夫で、日本の文化はできている。 現在は平和な世の中で飢えとは縁遠い生活をしており、生きるためというより、楽しむための食になっている。 ただ、また戦争などでいつ自給自足の生活に戻らないといけない日がくるか分からない。そんなときのために、自分で生きていくための食糧を得るための伝統的な文化はある程度伝承していかなければいけないんだなと思った。
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元々内陸ではほとんど塩の取れない日本では、山で伐採した木を川に流し、海の河口で回収して薪に使い、海水を煮て得た塩を内陸に持ち帰ったという。生きるための知恵と 労力を惜しまぬ力技に感動。 また、そもそも塩魚というのは大量流通によって安くなった塩に付加価値をつけたもので、魚よりも塩を...
元々内陸ではほとんど塩の取れない日本では、山で伐採した木を川に流し、海の河口で回収して薪に使い、海水を煮て得た塩を内陸に持ち帰ったという。生きるための知恵と 労力を惜しまぬ力技に感動。 また、そもそも塩魚というのは大量流通によって安くなった塩に付加価値をつけたもので、魚よりも塩を摂取することが本来の目的であったという。1日目は塩を舐め、2日目は頭を食べ、3日目は胴体、4日目に尻尾と大事に食べ分けたとのこと。まさに目からウロコの話し。
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宮本民俗学なるものを一度くらい読んでみようと思って。話し口調で説明もわかりやすく、たいへん読みやすかった。 塩水をそのまま煮詰める方法から揚浜式へ、石釜方式へ。 山から材木を流してそれを海に行って焼く。材木と塩の物々交換。麻をさらすための軽い灰を売って塩を焼く。牛で塩を運ぶ。細...
宮本民俗学なるものを一度くらい読んでみようと思って。話し口調で説明もわかりやすく、たいへん読みやすかった。 塩水をそのまま煮詰める方法から揚浜式へ、石釜方式へ。 山から材木を流してそれを海に行って焼く。材木と塩の物々交換。麻をさらすための軽い灰を売って塩を焼く。牛で塩を運ぶ。細い道の道草を食わせる。人の背で運ぶ、塩魚を売る。 米の伝来、騎馬民族、壺の発達、畳の発明、一つ一つの営みを合理的に限られた中でやっていくことに、文化の繋がりや社会制度が見えてきて面白い。 民俗学に詳しくないからこの見解がどこまで正しいのかわからないけど。 P200 それは、そこにいる人たちのたんなる美意識というよりも、そこにあるものを、長い生活の体験の中から見つけていって、そしてそれを美に転化していった。その美がたんなる美ではなくて、自分らの生活を守る強さをもつ美であった、ということを忘れてはいけないと思います。
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2014.9記。 生きるために欠かせない「塩」と、人々はどう関わり合ってきたか。 著者はまず、「八百万の神」を祀る習俗の日本において「塩」そのものを祭った神社がない、という事実に着眼して筆を起こす。 容易に塩を得ることのできなかった古い時代。山奥の人は薪を川に流す、川下の人は...
2014.9記。 生きるために欠かせない「塩」と、人々はどう関わり合ってきたか。 著者はまず、「八百万の神」を祀る習俗の日本において「塩」そのものを祭った神社がない、という事実に着眼して筆を起こす。 容易に塩を得ることのできなかった古い時代。山奥の人は薪を川に流す、川下の人はそれを拾って海水を茹で、塩に変える、それを山奥に返す。まさしく、流通経済が塩を媒介として育っていた。昭和初期くらいまでは薪のことを「塩木」と呼ぶ地域があったという。 また、人々は山中で立小便をすることを厳しく戒めた。理由は、狼が塩をなめに来るため。以前読んだ「イマドキの野生動物」という本の中で、現代でも、野生のシカが道路凍結予防に散布される塩を舐めて大繁殖している、というエピソードが載っていた。我々は「立小便禁止」を近代的道徳の範囲でしか理解せず、古の知恵を失ってしまっているのかもしれない。 最後に、結局回答が言及されていない「塩が祀られない理由」についての私個人の仮説。つまり、塩は一種の貨幣、「交換を媒介する手段」としての側面を持っていたから、という発想はどうだろうか。貨幣も、神社で神様として祭られているという話は聞かない。そして、網野善彦氏の歴史学の知見を借りれば、交換=経済を媒介するものは、モノと所有者との関係を断ち切る(「無縁にする」)性質を持っている(例えば市場)。 「浄化」という機能も含め、塩には貨幣や市場に通じる交換手段としての「無縁性」があり、よって八百万信仰の外にあったのではないだろうか。なんか、我ながら結構いい線いっている気がしてきたが、多分違うしまあいいや。
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最晩年の講演3編を収録。語り口からして良いです。 「塩の道」 製塩法や塩の交易の移りかわり。 日本では塩は基本的に海水から作る(外国では塩井、岩塩の利用も多い)。単純に海水を煮詰める方法から、揚浜・入浜といった効率的な生産方法がおこり、瀬戸内などで大量生産されるようになる。原始...
最晩年の講演3編を収録。語り口からして良いです。 「塩の道」 製塩法や塩の交易の移りかわり。 日本では塩は基本的に海水から作る(外国では塩井、岩塩の利用も多い)。単純に海水を煮詰める方法から、揚浜・入浜といった効率的な生産方法がおこり、瀬戸内などで大量生産されるようになる。原始的な少量生産をしていたころは本格的な塩の交易はなかったと考えられるが、集中生産されるようになると塩の道をたどって交易されるようになる。運搬については牛の果たした役割が強調される。馬と違って、細い山道もこなし、道草を食いながら移動できるので活躍した。塩を運んでいった先で牛を売って人間だけ帰るなんてことも。険しい山道は人間(ボッカ)が運んだ。塩魚も運ばれたが、これも塩の補給が第一義であった。初日は舐めるだけで、一尾をさらに3日間かけて食べた。 「日本人と食べもの」 トウモロコシは戦国時代の終わりくらいに日本に入ってきた。民間の力で、ヒエに代わって九州から関東にかけての山間地に普及したのではないか。サツマイモとともに飢饉を逃れる力になった。 ソバとかアワとか北から早く農耕が発達したのではないか。 日本からクリ山が姿を消したのは明治30年代から。鉄道の枕木として伐採されてしまった。トチの木、タコ穴が女系で伝承・管理されていた例も。備荒食。縄文以来の山地民の文化。 中国の人口増減、前漢末6千万→後漢初1.5千万→後漢末5千万→三国時代0.6千万→南北朝末2千万→→→安定するのは明代になってからby岡田英弘教授。ホントか? 米は最初は田植えをしない乾田式だったろう。舟によって内陸に伝播。調理法は土器に焦げ付くと始末に終えないので、煮るのではなくかまどと甑で蒸すことから始まったのだろう。すると囲炉裏の自在鉤では甑は扱えないので、そちらは山地民の文化。 江戸時代は藩単位の食物自給自足が基本。飢饉が起こると周囲の藩は津留をしてしまう。 米を食う生活の方が魅力的なのになぜ山地に住むか?・・・山地の産業がある、林業、狩猟、採鉱。山地に住んで現地で自給自足する。 もともと発酵食品は壺で作っていた。関西に「たが」の技術が入って、桶・樽で酒が作られるようになる。その酒が東国へ来る。もちろん空樽を送り返す手間は取れない。それらを再利用して練馬の大根の漬物や、銚子の醤油づくりがはじまった。 「暮らしの形と美」 馬に乗らずに引くというのは世界的に見て特殊な風俗。貴族は割りと上手に馬に乗っているところから見て宮本先生は騎馬民族渡来説推し。もともと蝦夷地にはたくさん馬がいたらしいこともポイント。 大きな木材と墨縄による直線構造でできあがった家屋。 わら細工による軟質文化。
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「塩の道」「日本人と食べもの」「暮らしの形と美」 文献だけでなくフィールドワークで得た情報が、リアルに立ち上がってくる。 塩は必要不可欠なものだから、山の民は灰(麻を白くする)と交換したとか、牛を使って運ぶと道草を餌にできるし、ついでに向こうで牛も売れる(馬は管理が厳しかった)...
「塩の道」「日本人と食べもの」「暮らしの形と美」 文献だけでなくフィールドワークで得た情報が、リアルに立ち上がってくる。 塩は必要不可欠なものだから、山の民は灰(麻を白くする)と交換したとか、牛を使って運ぶと道草を餌にできるし、ついでに向こうで牛も売れる(馬は管理が厳しかった)とか、当時の生活が垣間見れておもしろい。 また、塩の摂取の仕方も現実的で興味深かった。塩イワシは必ず焼く(煮たら塩が散る)し貴重品だから四日かけて食べる、わざとニガリのある悪い塩を買って分離させ豆腐作りに使う、塩が不足すると新陳代謝が悪くなって吹き出物が出たり目が悪くなる、等々。 動物も塩を欲するから、野宿をする場合は必ず火をたく(そうしないと翌朝牛が獣に喰われている)、小便を壺にためたり立ち小便をするとオオカミが舐めに来るから駄目、という話に驚いた。 わらじは消耗品で三日に1つ破れるから一年に百足は作らなければならない、ということさえ実感としてわかなくなってしまった今、こういう生活に密着した記録は非常に貴重なものだと感じた。
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