海上の道 の商品レビュー
柳田國男が晩年に書いた論文をいくつか合わせたもので、日本国および日本人のルーツを辿ろうと試みた作品。そんなこととは知らず『遠野物語』の海版と思って読み始めたので何度か挫折しながら、無理やり読み切ったが、正直半分も理解できていない。 本書全体を通じて現れるニライカナイという単語が...
柳田國男が晩年に書いた論文をいくつか合わせたもので、日本国および日本人のルーツを辿ろうと試みた作品。そんなこととは知らず『遠野物語』の海版と思って読み始めたので何度か挫折しながら、無理やり読み切ったが、正直半分も理解できていない。 本書全体を通じて現れるニライカナイという単語がそもそも捉えにくくて困る。島で暮らす人たちの想像から生まれた水平線の果てにある別世界とでも言えばよいのか、のちに龍宮や根の国などと同一視されたらしい。根の国といえば素戔嗚尊が母を追って辿り着いた地下の国だが、著者曰く、根という漢字をあてたがために地下という意味合いが強くですぎただけで、実際はハジマリ(根本)という意味合いで用いられたらしい。なんかそんなことが書いてあったと記憶しているが、如何せんチンプンカンプンのまま読んでいたので、そうでなかったかもしれない。 ほかには、日本人にとって、また日本史において無視することのできないコメ、イネの問題を扱ったのが本書の後半。新嘗祭の由来とか、三文字みるだに難しそうだが、実際、やはり難しい。ただ、結局筆者が言いたいのは、日本人の本当にはじまりのはじまりは、江上波夫が唱えた騎馬民族説みたいな、北方からの南下ではなく、南方から海を渡ってきたのではないかということらしい。 それに関連して、なぜわざわざ、造船技術も航海技術も発達していない当時、命の危険を冒してまで家族引き連れ日本に渡ってきたのか、という疑問を提示し、それについての回答として、子安貝の存在を挙げる。宝貝ともいわれたこの貝は大陸の王朝で珍重されたらしく、その世界の産出地の一つが沖縄あたりだったらしい。子安貝については岡田英弘の中公新書『倭国』だったかにチラッと出ていて記憶にはのこっていた。言ってみれば古代のゴールドラッシュか。 総じて、考察の対象が大きすぎるのと、筆者本人も述べるように、寿命が迫っている中、後世にのこす宿題という意味合いも込めて書かれているので、『遠野物語』とかほどはまとまっていないし、結論も根拠も相対的にはふわっとしている。 中盤に突然、いや突然というのも変なので、予期していなかったとでも言えばよいのか、「鼠の浄土」という一篇があり、これは面白かった。海の話なのに鼠?と思いつつ読んでみると、鼠はどうやら海を泳いで島から島へと渡っているらしいという内容で、その例が近世江戸時代くらいからぽつぽつ記録としてのこっているそうな。当時の赤本、黒本のノリなのか、 「……奥尻はそれ以前から鼠が多いので評判の島であり、同時に鮑と海鼠のよく獲れる島でもあった。それで鼠が鮑を食って蕃殖し、また或る年には鮑に食われて減ってゆくという話があり、或いは海に入って海鼠になるのだというような話さえあったが、それをみんなが信じていたかどうかは明らかでない。ただ何らかの外部の理由で、この島の鼠の数に、著しい増減のあったことだけは事実だったらしい。」 博学のおじさんが真面目な口調でこんなふざけたことを書くのだからなんとも人が悪いが、この鼠の話も結局ニライカナイに繋がり、一種の動物信仰にもつながる。 面白いし、日本人たるもの興味もって一度は考えてみたいが、むずかしい! ちなみに、大江健三郎の解説は興味がわかず読んでいない。
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日本人がどこから日本列島に渡ってきたのか、文字を使って残っているものでなく、主に沖縄での言葉や習慣と他との対比から新しい海上の道があったのでは、という仮説に基づく試論、だと思う。 民俗学というのか、初めて足を踏み入れてみた。咀嚼するのにかなり時間がかかり、内容の何を理解したかとい...
日本人がどこから日本列島に渡ってきたのか、文字を使って残っているものでなく、主に沖縄での言葉や習慣と他との対比から新しい海上の道があったのでは、という仮説に基づく試論、だと思う。 民俗学というのか、初めて足を踏み入れてみた。咀嚼するのにかなり時間がかかり、内容の何を理解したかというと何も理解出来ていない気すらするけれど、柳田國男の思索の中を漂えた。ただ漂うだけでも楽しい経験だったけれど、もっと意味するところを理解したいという気になる。 170801
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
1978年(底本1968年。初出1950~55年)刊。 海洋民、海浜や海岸近辺で生活していた民、あるいは広い意味での海の民を定点にした、昔話、伝承・伝説や慣習・伝統行事などを、広範な記録その他を基に描き出すエッセイ集。描くという言葉が相応しく、詩的な表現で縦横無尽に彩っていく。 が、まさにそれが弱点とも言える。著者の余りの博識に支えられた多種多様な文献解説(それこそ聞いたことのないような文献がわんさと出て来る。)を例にとると、記述の元となった文献・記録が、果たしていつ、どういう経緯で作成されたのか。 また、伝承や昔話の入手経緯が全く書かれないため、その時代相を捕まえるのが難しい。加えて、明らかにしようとするテーマと時期も書内ではさほど意識されない。 つまり、例えば、中世後期や近世の文献で、縄文期の状況を解明する作業には、注意を要するはずだが、こういう点への配慮がないのだ。 一方、昔話の多様さとその数に幻惑されがちだが、本書はそれら誕生の場所と時代とを有機的・網の目状に関連付けつつ、一つの事実を明らかにしていくという書き方ではない。 故に数多説明される昔話の適示によって何を明らかにしたいのか。これがイマイチ判然とせず、これはマイナス要素と言わざるを得ない。 とはいえ、ここまで多様に昔話・伝承・伝説を集積して書き切った書は多くはなく、貴重な書であることは明らかだ。 誰か本書に即した形で注釈付きの解説書を書いたら、それは先人の偉業のバトンを後代に繋ぐという点で、価値ある知的営為と考えるのだが…。
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文章が少し解りづらいのと、日本の旧国名が解らないので地図帳をひきながら読んでいるためなかなか進まないのがもどかしい。早く内容を理解できるようになりたい
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『近年まったく本ものの旅ができなくなったために、行って聴けば何でもないようなことを、知らずにいい加減な想像ですませようとしている問題が幾つかある。』これを七十七になって言えるかですよ。若手でもサボってる学者はここでドキッとさせられるのでは。私は学者でも何でもないが、ドキッとしまし...
『近年まったく本ものの旅ができなくなったために、行って聴けば何でもないようなことを、知らずにいい加減な想像ですませようとしている問題が幾つかある。』これを七十七になって言えるかですよ。若手でもサボってる学者はここでドキッとさせられるのでは。私は学者でも何でもないが、ドキッとしました。
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柳田国男の86歳のときの最後のメッセージといわれる。 前にも、一度読んだことあるが、 そのときは、『つまんない』という感じだった。 あまり、重要なことが言われていないと思ったのだ。 今回読んで、同じ感想だった。 民俗学の考えていることは なぜこんなに、つまんないのだろうか。 ...
柳田国男の86歳のときの最後のメッセージといわれる。 前にも、一度読んだことあるが、 そのときは、『つまんない』という感じだった。 あまり、重要なことが言われていないと思ったのだ。 今回読んで、同じ感想だった。 民俗学の考えていることは なぜこんなに、つまんないのだろうか。 大きなテーマは 『日本人はいかにしてわたってきたのか』ということである。 西海岸を伝う方法と東海岸を伝う方法 風の言葉の収集から・・みえてくること。 椰子の実が、伊良湖岬の海岸に流れ着いたこと 宝貝を求めて沖縄 宮古をめざす 漂流物は 椰子の実だけでなく 人間も漂流する 日本はコメ作国家であるが モミだけでは稲作は伝わらない。 という この構成の仕方は、 風、椰子、人間、コメが 海上の道を通ってやってきた。 ということなのだろう。 ふーむ。 コメが伝えわったことが 日本の文化の中心になった。 何だろう、この物足りなさは、 松岡正剛は、千夜千冊で 海上の道 のなかで、 松岡正剛は言う 『柳田の民俗学は思想の言葉をもたなかった。 見聞をしたことを記載することが柳田の方法で、 それを聞き書きというなら、 まったくそれ以上でもそれ以下でもなかった。』 というのが、正しいのかな。 柳田国男小論 日本の歴史の流れから 柳田国男の変遷が詳しく書かれている。 日本の植民地政策(外なるもの;台湾、朝鮮、内なるもの沖縄、アイヌ) との関連で、詳しく述べられている。実に参考となる論証である。 海上の道の始まり 貨幣としての宝貝 殷の時代に 宝貝が貨幣だった。 その宝貝は ベトナムもしくは 沖縄からとどいた・・。 殷の時代のヒトが 沖縄にたどり着き 定住した。 それが、コメの文化の始まり? そして 沖縄特有の酒 泡盛 はどのように来たのか? 柳田国男は 学生時代に 伊良湖の海岸で 椰子の実 を見たことが 日本人はどこから来たか? という疑問の発端だった。 椰子の実を見た事が、島崎藤村の詩に結実する。 日本は島国なので、 どこからこようと『海』を渡るしかない。 樺太経由であろうと 朝鮮半島経由であろうと 海を通ってやってきた。 柳田国男の 『海上の道』は、黒潮の道だった。 黒潮に乗って やってきた文化。 黒潮が日本でぶつかるときには 沖縄である。 その沖縄が 黒潮から運ばれてきたものを、 一時的に 受けとめ そしてヤマトへ 運んでいく。 沖縄に 黒潮文化が根付いていないといけない。 モミは 黒潮に乗って、沖縄にたどりついたとしても 沖縄の稲作の遺跡は 古いものは残っていない。 私は水田を 石垣や伊平屋島でみたが、 日本の原風景のようなイメージが あった。 なぜ、沖縄に 稲作文化が根付かなかったのだろうか? それが 九州南部では 稲作の古い遺跡が見つかっている。 海上の道は モミをはこばなかったのだろうか。 柳田国男は、 海上の道の 先は ミクロネシアやポリネシア インドネシア と想定していたのだろうか? それとも、ベトナムから中国福建省だったのだろうか? どうも、稲が伝わるという意味では 福建省を考えていたのだろう。 イネが雲南起源説であり 照葉樹林文化という考え方で言えば 福建省から海上の道で、やってきたことも考えられるが、 (泡盛が・・・タイから もしくは 福建省経由できたように、 (沖縄のお墓の形式が福建省から来たような。 そいう伝わり方の中に モミがなかったのだろうか? イネの起源説が 揚子江の中流域となったことによって 少し、様相が違うような気がする。 モミと稲作文化は、 揚子江中流域からはじまり、揚子江の河口に ながれて、 九州南部にたどり着いたのだろうか。 確かに ニンゲンは ハプロタイプからいえば 海上の道を漂流してきたようだ。
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学生の頃には、全集で読みました。 手元に全集もあるのですが、 いつ購入したのか、岩波文庫版(1992年2月15日第17刷)が あったので、行き帰りの列車の中で読んでいます。 大江健三郎の「解説」が、素敵。 (2012年9月5日) 正しいかどうかというと、きっと「トンデモ」なん...
学生の頃には、全集で読みました。 手元に全集もあるのですが、 いつ購入したのか、岩波文庫版(1992年2月15日第17刷)が あったので、行き帰りの列車の中で読んでいます。 大江健三郎の「解説」が、素敵。 (2012年9月5日) 正しいかどうかというと、きっと「トンデモ」なんでしょう。それはそれで、よいのです。 (2012年9月9日)
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柳田晩年の著作。日本人という稲を携えた民俗はどこから来たのか、稲積やネズミの名称、帆船の発達などから沢山の問いを投げかけた一冊。 繰り返される一国民俗学の語が気になる一冊でもあった。また、戦争が沖縄に及ぼした影響をくりかえし残念だと語っている点が印象に残る。
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沖縄、先島あたりの言語に精通していないと難解な内容もおおかった。 ただ、文化が北から伝播したのではないという説や根の国の話など興味深い内容も多かった。
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これも途中です>< 柳田先生の読みたいのに時間が無い。 あと『山の人生』と『遠野物語』欲しい。
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