或る少女の死まで の商品レビュー
詩人室生犀星の自伝的小説。 いや、室生犀星ってちょっと女の敵的なところあるじゃないですか、どういうところからそんな人格ができたのかなあと興味本位で読んでみたら面白かったというね。
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Twitterでよく室生犀星のことについてつぶやいてる人がいたのでよく知りもせず読んでみた。 割りと良かった。 読んでいて落ち着く。 とくに作者が初めて書いたという「幼年時代」が好きかな。 心が凪みたいに無になった。 あんまり感じたことのない読後感。 他に二編あるけど二つ目の「性...
Twitterでよく室生犀星のことについてつぶやいてる人がいたのでよく知りもせず読んでみた。 割りと良かった。 読んでいて落ち着く。 とくに作者が初めて書いたという「幼年時代」が好きかな。 心が凪みたいに無になった。 あんまり感じたことのない読後感。 他に二編あるけど二つ目の「性に目覚める頃」が変態チックで印象的。 他の小説も読もうかな。これらは自伝みたいなものらしいから、きちんとした小説を。
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- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - この寂しさは何処いずくより おとずれて来るや。 たましいの奥の奥よりか 空...
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - この寂しさは何処いずくより おとずれて来るや。 たましいの奥の奥よりか 空とおく過ぎゆくごとく わが胸にありてささやくごとく とらえんとすれど形なし。 ああ、われ、ひねもす坐して わが寂しさに触れんとはせり。 されどかたちなきものの影をおとして わが胸を日に日に衰えゆかしむ。 これは「性に目覚める頃」にある犀星の友人、表悼影が病の床で書いた詩である。 私はこの詩が好きだ。涙が出る。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 表はただ享楽すればよかった。表は未来や過去を考えるよりも、目の前の女性を楽しみたかったのだ。私は表のしていたことが、表の死後、なおその犠牲者の魂をいじめ苦しめていることを考えると、人は死によってもなおそそぎつくせない贖罪のあるものだということを感じた。本人はそれでいいだろう。しかしあとに残ったものの苦しみはどうなるのだろうと、私は表の生涯の短いだけ、それほど長い生涯の人の生活だけを短い間に尽くして行ったような運命のずるさを感じた。(「性に目覚める頃」より) - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - あとがきの中で室生犀星はこれら初期の作品を失敗作のように恥じているが、私は好きだ。先に読んだ『火の魚』に比べて劣っているとは思えないし、純粋な分、これらの初期の作品の方が心に響くものがあるようにも思う。 幼年期の室生犀星にも青年期の室生犀星にも、もうすでに『火の魚』のいじわるじいさんのような捩じれた感情があって、それがとても興味深かった。たとえば好きな女の子の悪事をこっそり盗み見したりその子の履物を片方盗んだりして興奮するというのは、ちょっと変わっているように思う。しかしそういう感情が描かれているからこそリアルな生々しい血の流れる作品になるのだと思う。 きれいごとや現実離れした小説を私は好きになれない。 だから室生犀星の作品はいい。
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表題作をラストとする筆者の半エッセイ半フィクション三部作 生家の近所に貰われていき、その間を自由に行き来する幼年時代 幾人もの少女や女性が登場しては室生少年の人生に何らかの影響を与えていく
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詩人だった室生犀星(1889-1962)がものした自伝的小説三部作、いずれも1919年の作。 「幼年時代」 他家に遣られた子どもの、生母や姉への愛しさや寂しさや哀しさが、その子どもの透明ささながらに、淡々と静謐な文体で描かれている。主人公に子どもの無邪気さで仲良しになった...
詩人だった室生犀星(1889-1962)がものした自伝的小説三部作、いずれも1919年の作。 「幼年時代」 他家に遣られた子どもの、生母や姉への愛しさや寂しさや哀しさが、その子どもの透明ささながらに、淡々と静謐な文体で描かれている。主人公に子どもの無邪気さで仲良しになったお孝さんという女の子と知り合っても、 "私はお孝さんと姉とは別々に考えていた。お孝さんには姉さんと異なったものがあった。つまり「可愛さ」があって姉さんにはかえって「可愛がられたさ」があった。" 胎違いであるということとは全く無関係のところにある、姉への思慕の深さ。その憧憬が、孤独なこの子の全てを支えているかのようだ。姉と一緒で、一つの全体でいられる。姉の純朴な優しさも静かに美しい。 "私はときどき隣の母の家へ行くと、きっと姉の室へ這入って見なければ気が済まなかった。いつも黙って、静かにお針をしている傍に寝そべっていた私自身の姿をも、そこでは姉の姿と一しょに思い浮かべることが出来るのであった。その室には、いつも姉のそばへよると一種の匂いがしたように、何かしら懐かしい温かな姉のからだから沁みでるような匂いが、姉のいなくなったこの頃でも、室の中にふわりと花の香のように漂うていた。" "姉なしには私の少年としての生活は続けられなかったかもしれない。" なお、思慮深く感受性のある子どもが「男の子」になってしまうときに覚える苦味も、そっと挿し込まれている。それを包んでくれるのも、姉だった。姉が嫁き、主人公の少年時代は終わる。 三篇中の白眉と云える詩人の処女小説。小説というのはこうでなくては、と思わせる。 「性に目覚める頃」 賽銭泥棒を犯す若い女に性欲の昂揚を覚える主人公。男のセクシュアリティのエゴイズムにとって障壁となる女の主体性を物化すると同時に、近くて遠い性の小宇宙を換喩(メトニミー)で剥製品にして陳列棚へと手繰り寄せるのがフェティシズムと云う暴力の魔術か。 "何ということなしに、その雪駄の上にそっと自分の足を・・・のせれば、まるで彼女の全身の温味を感じられるように思われた・・・。私は子どものときから姉の雪駄をはいてよく叱られたものであるが、それよりも、もっと強い烈しい秘密な擽ぐったいような快さが、きっと私が雪駄に足をふれさせた瞬間から、私の全身を伝ってくるにちがいない。ちょうど、踵からだんだん膝や胸をのぼってきて、これまで覚えたこともない美しいうっとりした心になるにちがいないと、私は雪駄を恨めしく眺めたのであった。" 肺病で死んだ友人の女がもたらす嫉妬。エロティシズムは、日常でありながら非日常、凡庸でありながら秘境的、見えていながら隠されている、すぐそこに在りふれていながら隔絶されている、空間を同じくしながら全く異なる世界に並行している、一方の側の全員がそれを平等にもっていながら同時に全員がそれを可視的に不可視化する作法をも併せもっており、実際は可視的でありながらさも不可視であるかの如く相互に振舞うことを暗黙裡に強いられる、そんな微妙な薄い被膜のあちらへ向かわんとするこちらの狂態。 "そして私はすぐに表[主人公の友人]と彼女との関係が目まぐるしいほどの迅さで、二つの脣の結ぼれているさまを目にうかべた。あの美しい詩のような心で眺めた二人を、これまでいちども感じなかった或る汚さを交えて考えるようになって、妬みまでが烈しくずきずきと加わって行った。今ここで真面目な顔をして話をしていながら、いろいろな形を亡き友に開いて見せたかと思うと、あの執拗な病気がすっかり彼女の胸に食い入っていることも当然のように思えるし、また何かしら可憐な気持ちをも起させてくれるのであった。" 「或る少女の死まで」 都会の・大人の・生活の醜悪かつ卑小で散文的な現実の泥濘に塗れた詩人の魂を浄化したのは、屈託も邪気も無い瑞々しい九歳の少女だった。そしてこの"小さな救い主"は題名の通り死んでしまう。もはや「救い主」に、決して永遠が約束され得ない、いつだって予め仮初の「救い主」でしか在り得ない、という現代的な暗示が感じられた。主人公たる犀星は、この作品を発表後、四十年以上も生きることになる。
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表題に惹かれた。 『或る少女の死まで』とは、なんて好い題だろうか。 表題作以外には自らの幼年時代を綴った2作品が納められているが、どれも毒がなく素直、本当に清々しいくらい素直だ。 詩の方が向いてるような気もしなくもないが、 自叙伝以外の小説にもふれてみたい。
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砂っぽい さらさらしてる 『或る少女の死まで』がとても良かった 夭折てやっぱり美しく映りますね
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「ここの寺は室生犀星が育った寺だよ」という父の一言。 その寺は、高校時代いつも遊びに行っていた片町へ行くときに通る「犀川」にかかる橋のすそにひっそりと佇んでいた。 何度も何度も通った道なのにこの小さな橋のへりにある寺に、金沢の有名人がかつて住んでいたなんて! とちょっと嬉しい気...
「ここの寺は室生犀星が育った寺だよ」という父の一言。 その寺は、高校時代いつも遊びに行っていた片町へ行くときに通る「犀川」にかかる橋のすそにひっそりと佇んでいた。 何度も何度も通った道なのにこの小さな橋のへりにある寺に、金沢の有名人がかつて住んでいたなんて! とちょっと嬉しい気持ちがしたのと、ちょっと室生犀星さんと近くなった気持ちがしたので、読んでみた。 時代は違うけど、同じ場所を行き来していたのか。ほほ、今でもどこかそこらへんを歩いてるのではないかしらん。 小説自体は最初の方がおもしろかった。この人、大切な人を失いすぎだろっとつっこみたくなるくらいぽんぽん人が死んでいった。数奇で孤独な人生だったのかな。 「××××年×月×日、わたしは第一の都落ちをした。」 って言葉が1番おもしろくてこころに残ったな。。。w 実際は 「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の有名な詩句があるようにに、ほとんど金沢に帰らずにいたらしい。
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この作品は三つともあくまで現実に限りなく近い創作であるといえると思う。 完全な自伝ではない。そこがミソ。 しかしあまりにも美しくて悲しい話ばかり。 こういう小さな死の体験の積み重ねが、 彼の作品の美しさにもつながっているのだろうと思う。 それは切ないことだけど。
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室生犀星が自身の幼少時代~東京での苦しい詩作時代を題材に書いた小説となっていますが、勿論単なる回想録で終わる筈がなく、そこには傷付きやすい少年の眼で見た家族、故郷金沢の自然と、そこに住む人々、少女から実母までの「女性」達が美しく、そして常にどこか寂しさも伴って描写されています。 ...
室生犀星が自身の幼少時代~東京での苦しい詩作時代を題材に書いた小説となっていますが、勿論単なる回想録で終わる筈がなく、そこには傷付きやすい少年の眼で見た家族、故郷金沢の自然と、そこに住む人々、少女から実母までの「女性」達が美しく、そして常にどこか寂しさも伴って描写されています。 賽銭泥棒の少女の艶っぽさ、ボンタンの可憐さがたまりません。犀星が書く女の「におい」はさすがだ…。 詩人犀星にとって初めての小説作品ですが、何度再読しても、瑞々しい感動を得ることの出来る作品です。
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