山椒魚 の商品レビュー
近代文学って慣れてないと読みにくいイメージだけど井伏の文章はスラスラ読めた。掛持ち、寒山拾得、夜ふけと梅の花、女人来訪、辺りが面白かった。主人公の語尾が「〜だぜ」なのもシャレてて好きだな。全体的にフワフワしてる感じとかも他の作家とは違った魅力の一つなのかも。
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時代物の文学作品を読むのは厳しいな 表題作を含めて12の短編集だが、山椒魚を読んだあとは1番少ないページ数の「へんろう宿」を読んで終わりにした
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井伏鱒二の初期作品12編。 一編がかなり短くて物語の余白がたっぷりと残されているため、どう感じ解釈するかは読み手に委ねられている印象である。 豊かに表現される自然描写はとても詩的で、孤独や悲しみがユーモラスに描かれていた。 特に心に残った作品は、「山椒魚」「朽助のいる谷間」「屋根...
井伏鱒二の初期作品12編。 一編がかなり短くて物語の余白がたっぷりと残されているため、どう感じ解釈するかは読み手に委ねられている印象である。 豊かに表現される自然描写はとても詩的で、孤独や悲しみがユーモラスに描かれていた。 特に心に残った作品は、「山椒魚」「朽助のいる谷間」「屋根の上のサワン」。 うまく言えないのだけど、さみしさやかなしみの根底にある愛情っていうのかな。人間の奥深さを感じた。著者の懐の深さもね。 以下は覚え書き。 「山椒魚」 成長しすぎて岩屋から出られなくなってしまった山椒魚と蛙のやりとりがユーモアに描かれる。悲しみ、嫉妬、怒りといった感情から始まった二人の関係が、一緒に時を過ごしていくうちにいつの間にか変化していく。 「朽助のいる谷間」 私と、かつて私を育てた朽助という男と、朽助の孫娘のタエト。朽助の家がダムの底に沈むことになったが、決して立ち退こうとしない朽助を説得するようタエトから私へ手紙が届き、私は朽助の元へ向かう。最後の場面の描写が美しい。 「岬の風景」 細い二つの岬に抱かれた港町へと移り住んできた私は、仕事の傍らで女学校出の少女に英語を教えることに。二人は自然と恋愛感情を抱くが、少女の付き人の由蔵と彼の下宿先の賄娘の視線が恋路を躊躇わせる。しかし少女と賄娘が話す姿の眩しさに、躊躇わせていたのは自分の心だと知る。 「へんろう宿」 へんろう宿を営むのは、50くらいの女と80ぐらいのお婆さんと60くらいのお婆さんの三人の女だけ。隣室の客とお婆さんの話し声が耳に入ってきたことから、男手がまったく見当たらない理由が明らかになる。それはかなり衝撃の事実だった。 「掛持ち」 温泉宿の番頭を掛持ちする喜十という男。甲府の温泉宿では三人いる番頭の中で一番うだつが上がらない三助だが、夏場と真冬の閑散期だけ番頭を務める伊豆の温泉宿では誰もが一目置く紳士としてふるまっている。甲府の温泉宿での三助の喜十をよく知る客が伊豆の温泉宿に現れてさあ大変。 「シグレ島叙景」 ある島で廃船をアパート代わりに住む男女とそこへ移り住んだ私。男女は50歳前後、夫婦ではないが、いつも息の合った言い争いばかりしている。そんな二人の様子を眺めながら、時には仲裁役もしてなどをして暮らす私。奇妙な設定と軽妙な人物描写がなんとも可笑しい。 「言葉について」 ある島の住民はみな喧嘩腰な言葉づかいをする。旅行客には住民のおしゃべりや愛情が伝わらないほどの。しかし、一見すると不躾な言葉に聞こえても、言葉の真意を汲み取ることができれば問題ないのだ。言葉の持つ力の大きさと、表面的な言葉の意味に囚われない大切さを思った。 「寒山拾得(かんざんじっとく)」 寒山さんと拾得さんは唐の時代の天台宗の修行僧。寒山さんはお経を手に持ち、拾得さんは箒を持っていて、ふたりともげらげらと笑っている。寒山拾得という水墨画の作品を見ると、この物語のような二人の声が聞こえてきそう。 「夜ふけと梅の花」 梅の花が咲く頃、夜更けの道を歩いていたら、電信柱の影から出てきた男に話しかけられ、男はお礼に金を渡して去ってしまう。その金を返さなければと気にしながらなかなか返すことができず、一年後に男の勤め先に出向くと、男は売り上げを持ち逃げしていなかった。 「女人来訪」 まだ新婚なのに家庭争議の素が舞い込んだ。第3者としての一女性という妙な差出人からの手紙。”岡アイコ”の知り合いらしい女性からだった。8年前、岡アイコは私の結婚申し込みを断っておきながら、私のことが気になって仕方がなかったという。そんな彼女が自分を訪ねてくることに。 「屋根の上のサワン」 散歩中、沼池のほとりで猟銃で撃たれて苦しんでいる雁を見つけ、家に連れて帰り治療し、羽を切り”サワン”と名付けた。雁との心通わせる日々が続いたが、ある月夜、サワンは屋根の上で飛び去っていく雁たちへ鳴き声をたてており、そして… 「大空の鷲」 御坂峠にはクロとして知られる鷲がいる。東京の小説家は、鷲が猿を襲撃し猿を捕まえて飛び去るのを見て驚く。映画の撮影隊がそこへやって来たが、一人の女優が東京の小説家の知り合いだった。その女優が子供の頃に、その家に下宿していたことがあったという。東京の小説家は、少女が女優になるまでの出来事を空想していき...
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12の短編集であり、一気に読めた。 方言や見慣れない表現に難しさもあるものの、それぞれ描かれる風景や心情に惹き込まれた。 共通して動植物が印象を深め、各編に一貫性を感じさせる。
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18年ぶりくらいに読んだ。 最後の蛙の台詞の「てにをは」が気になって仕方がない。 「今でもべつにおまえのことを怒ってはいないんだ。」 「今で『は』」じゃなくて? 現在の蛙の心境として『は』よりも『も』の方が適当なのだろうか、としばらく考えていた。 完全なるフィクションなの...
18年ぶりくらいに読んだ。 最後の蛙の台詞の「てにをは」が気になって仕方がない。 「今でもべつにおまえのことを怒ってはいないんだ。」 「今で『は』」じゃなくて? 現在の蛙の心境として『は』よりも『も』の方が適当なのだろうか、としばらく考えていた。 完全なるフィクションなのに、心に期する感情は誰もが共感できるほどの圧倒的なリアリティー。 この作品が名作として伝わっていくなら、僕はこの国が好きだ。 2016.5.11
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自分の読んだ文庫はこのカバーじゃないけどまあいいか。 町蔵さんの『私の文学史』で取り上げられていた「掛け持ち」が収録されている文庫がうちにあったので1冊読んでみる。平成9年の奥付だが、当時は挫折したが、今回は読了。 表題作と「屋根の上のサワン」(サワン、って傷めた左の翼=左腕とい...
自分の読んだ文庫はこのカバーじゃないけどまあいいか。 町蔵さんの『私の文学史』で取り上げられていた「掛け持ち」が収録されている文庫がうちにあったので1冊読んでみる。平成9年の奥付だが、当時は挫折したが、今回は読了。 表題作と「屋根の上のサワン」(サワン、って傷めた左の翼=左腕ということかな?でも普通は大丈夫なほうを名前にすると思うのでやはり思い過ごしか……)は、たしか学校の教科書で読んだ記憶がある。 で。 「山椒魚」はカフカではないかい。個人的には「シグレ島叙景」「寒山拾得」「夜ふけの梅の花」が好み。 「なんかに似ているな……」と思いつつ、読んでいて気づいた。つげ義春の漫画に似ている作品がけっこうあるのだ(個人の感想です)。
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井伏鱒二の懐の大きな文章が堪能できる短編集。ストーリーとか小説の意味とか関係ないというのは乱暴すぎるかもしれないけどとある視点で絵画的に世界を優しく切り取るというようなふうに感じる。その結果「これは何を言いたいんだろう」という感想を持ってしまうものもあるけど、それが世界というもの...
井伏鱒二の懐の大きな文章が堪能できる短編集。ストーリーとか小説の意味とか関係ないというのは乱暴すぎるかもしれないけどとある視点で絵画的に世界を優しく切り取るというようなふうに感じる。その結果「これは何を言いたいんだろう」という感想を持ってしまうものもあるけど、それが世界というものかもしれない。 代表作とされる山椒魚はそんな観察が浮き出る印象。朽助のいる谷間はストーリー感が強めに出る印象。屋根の上のサワンは全体的なバランスのよさを感じた。そのほか、へんろう宿、掛け持ち、女人来訪が印象に残った。女人来訪の文章は面白すぎる。大空の鷲はすごく実験的な作りの小説のようにも思えるけど語り口は井伏鱒二的で不思議な感触。 女人来訪の一番印象に残った部分。 「あなたも岡アイコさんも、どちらも愚劣です。不自然なロマンスはむしろ猥褻です。あなたは榛名山の譬え話で、ふんわりしてしまったんでしょう?」彼女はそれから笛の音に似た声でピイという声をあげて泣き出した。
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作品の出来不出来が激しいように思えた。旅する主人公と、その旅先の人々との交流を描いた話が多かったが、同じ型の作品を並べるとこうなってしまうのかもしれない。 似た作家として、漫画家のつげ義春を思い出した。特に「言葉について」などは彼の「紅い花」とよく似ている気がする。比較して読んで...
作品の出来不出来が激しいように思えた。旅する主人公と、その旅先の人々との交流を描いた話が多かったが、同じ型の作品を並べるとこうなってしまうのかもしれない。 似た作家として、漫画家のつげ義春を思い出した。特に「言葉について」などは彼の「紅い花」とよく似ている気がする。比較して読んでみるのも面白いかもしれない。(じぶんはやらないが)
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情景は浮かぶので文章としては読みやすいと思う。が、ぶつ切りで終わるストーリーに理解が追いつかず。 「朽助のいる谷間」しか分かった気になる話がない。もういちど読んでみる。
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山椒魚と岩屋との関係が、ひとと自我に思える。自我という折。そして、びくりともしない岩屋は、脱出不可能な牢獄にも見えてくる。 そこが怖い。 山椒魚の世界で描かれる岩屋は〝壊れない〟し〝出ることができない〟のだ。 そして日々は続いていく。山椒魚は倦み、病んでいく。山椒魚...
山椒魚と岩屋との関係が、ひとと自我に思える。自我という折。そして、びくりともしない岩屋は、脱出不可能な牢獄にも見えてくる。 そこが怖い。 山椒魚の世界で描かれる岩屋は〝壊れない〟し〝出ることができない〟のだ。 そして日々は続いていく。山椒魚は倦み、病んでいく。山椒魚が、岩屋から眺めた、群れでしか泳げないメダカからすれば、ひとり安全で、生きて行くことに、事欠かない安息の地のような場所でだ。 山椒魚には天敵がない。身の危険が無い。なのに、こんなにも孤独なのはなぜか。 ひとにとっての岩屋とは?もう出ることのできない牢獄のようなものとはなんだろう?しかも、犯罪を犯したわけでも、法に触れたわけでもない、ひとの閉じ込められる〝岩屋〟とは何なのだろう? 注意深くなかったため?ぼけっと時を過ごしていたため? 岩屋がからだで、山椒魚がこころだとしたら? 岩屋が家庭のようにも思えてくる。蛙と山椒魚が、老夫婦にも思えてくる。山椒魚を怒らずにいた蛙は、自由でいたけど、その実、孤独だったんじゃないか。山椒魚との生活で、自由とは程遠いが、孤独ではない日々を過ごせたのではないか。愛ではなかったが、憎しみを持って、他者と繋がることが蛙の孤独を癒やしたのではないか。 メダカにとっては、群れという折に包まれた、不自由な個体にも見えるし、物思いに耽る小海老も、その小さな体が影響を及ぼせる範囲以上の、考えても仕方のない壮大な思考に身を委ねている姿から、その思考自体が、せっかく自由に泳ぎ回れるのにそうせずにいる小海老の岩屋に見えたのかもしれない。 山椒魚の目が見た世界は、結局のところ、どの生きものにとっても、それぞれの岩屋なしには生きては行けず、そこから出る術のない世界に見えたのかもしれない。或いは、酸っぱい葡萄のように、もう岩屋から出ることのできない山椒魚の、負け惜しみに近い皮肉かもしれない。そんな世界に置いて、本当の自由なんてあるわけが無くて、「まぶたを閉じた」暗闇のなかでの幻想としての自由があるのみだと悟ったのかもしれない。 蛙は他者だ。山椒魚は自分の孤独な岩屋に蛙を閉じ込める。ひとりがふたりになる。自分と同じ制約のもとを生きる存在が、他者でなくなるのだとも見える。べつに増えたり、減ったりはしない、拘束を、等しく肩に持つ存在。それが、この世界における友達や、伴侶、なのかもしれない。 ここまで書いて、やっぱり、岩屋とは〝自分〟じゃないかと思う。肥大化した自我は、現実面での行動を拘束してしまう。観念に殺されるひとに共通することじゃないだろうか。精神の牢獄。 この環境をすべて、山椒魚だと見ても面白い。見えてる世界がすべて、山椒魚そのものだとしたら。 まだまだ答えは出てこない。折に触れて思い返そう。。
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