食うものは食われる夜 の商品レビュー
初読みの詩人さん。 食べるものと、食べられるものの間に現れる妖しいような空気感を言葉にされているのだろうか、 と感じる一冊だった。 こういう一編が長めの人の詩を読まないので、 そこは新しいような、感覚でした。 言葉の組み合わせの感覚が自分とはあまり合わなかったからか、そこまで共感...
初読みの詩人さん。 食べるものと、食べられるものの間に現れる妖しいような空気感を言葉にされているのだろうか、 と感じる一冊だった。 こういう一編が長めの人の詩を読まないので、 そこは新しいような、感覚でした。 言葉の組み合わせの感覚が自分とはあまり合わなかったからか、そこまで共感する詩はなかったのですが、 最後の一文が上手い方だと思いました。
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今日の天気は、雲がかかり雨が降ったりやんだり、風が吹いたりやんだり、雨と風が降ったり吹いたり、外の音もあまり聞こえず静かなこんな日には少し不穏なこの詩集はちょうどよく読めた
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「食うものは食はれる夜」だと思っていたのですが、「食われる」なんですね。 図書館で借りたのですが、装丁が汚れたのか破損したのか、修復してあって真っ白です。 登録するときに画像を見て赤?!と思いました。 やっぱり装丁は中身の印象に影響を及ぼしますね。 印刷が面白くて、文字の跡が裏...
「食うものは食はれる夜」だと思っていたのですが、「食われる」なんですね。 図書館で借りたのですが、装丁が汚れたのか破損したのか、修復してあって真っ白です。 登録するときに画像を見て赤?!と思いました。 やっぱり装丁は中身の印象に影響を及ぼしますね。 印刷が面白くて、文字の跡が裏のページにあって触るとぽこぽこしています。 字自体も印刷というより彫っているように少し沈んでいて、すごくいい感じです。 詩集ではよくありますが、段落や文章の位置(たぶん専門用語があるんでしょうが、わかりません)も工夫してあります。 しかし電子書籍で読む人はそういった細工を知らないままなんでしょうね。わたしが本当の装丁が白だと知らなかったように。 電子書籍で詩を読むというのも何となく面白いですが。 本当はエッセイ(空席日誌)ではなく、こっちの詩集をずっと読みたかったので、めちゃくちゃ些細なことですが、ちょっとすっきりしました。 詩の良し悪しが何で決まるかよくわからないのですが、個人の好き嫌いで決めていいのであれば、嫌いではないが好きとも言えないくらいです。 でもお気に入りのページを開いて部屋に置かれていれば、そこだけ真夜中の空気が漂う感じでいいだろうなと思います。 突然あらわれる「牡蠣フライ」とか「やきとりやさん」とかの言葉たちが、固まっていないコンクリートみたいに湿気を帯びた生の気配を漂わせてきて、あれ、現実か?と妙なギャップに揺さぶられる。
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全篇良かった。蜂飼耳は生きることを美化せず、生々しく、時には残酷に書いている。音の表現も独自のリズムがあり耳にへばり付く。
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気になっている詩人、蜂飼耳さんの本を読んでみよう計画第2弾。 初版本の装幀を見せてもらったのですが、 どうせならばこちらがほしかったなぁと思っても後の祭り。 重版分からは”普及版”の装幀になっていて、 初版本に比べると普通に見えてしまう。 普通の本に比べたらそれでもおもしろいので...
気になっている詩人、蜂飼耳さんの本を読んでみよう計画第2弾。 初版本の装幀を見せてもらったのですが、 どうせならばこちらがほしかったなぁと思っても後の祭り。 重版分からは”普及版”の装幀になっていて、 初版本に比べると普通に見えてしまう。 普通の本に比べたらそれでもおもしろいのですが。 コストの関係で、「初版しかできませんよ!」という装幀、 造本もあるので、「この装幀、好きだなぁ、おもしろいなぁ」と 思うものが初版だったら、買っておくべきだとしみじみ。 そのうち・・・と思ってるとなくなっちゃうから。
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食というものは他の生を奪うということであることを意識させられる。そしてまた食の持つイメージがどこかで近しい者との間に交わされた秘め事であることと重なり合うことを連想させもする。詩人の中で交錯する思いは食を媒体とした二者の関係を、主従から対等への変化させる。思わず引き込まれる。 ...
食というものは他の生を奪うということであることを意識させられる。そしてまた食の持つイメージがどこかで近しい者との間に交わされた秘め事であることと重なり合うことを連想させもする。詩人の中で交錯する思いは食を媒体とした二者の関係を、主従から対等への変化させる。思わず引き込まれる。 美しい日本語。そんなものが定義できるものであるとして、それはしばしば己というものを削ぎ落とすことを良しとする美意識と繋がっているように思うけれど、蜂飼耳の日本語はその滅私のボーダーを自由に行き来するように語られながらどこか品のある言葉使いであって、やっぱり美しい日本語という言葉が浮かんでくる。イメージを固定しないことから生まれる風流という考え方が許されるのならば、蜂飼耳の日本語から感じるものはまさにそれだ。 ところで食の持つイメージに戻ると、食の持つ犠牲というイメージを蜂飼耳は易々と越えているようだ。そうして食されるものからダイレクトに生の喜びのイメージを引き出している(食するものを仲介とすることなく。これもまた己の消滅に近い感覚。あるいは他人の中に己を移すということ)。すごい。詩集のタイトルの意味が一篇毎に沁みてくる。 「あたしは鹿のうちがわにその鹿皮のうちがわに はいり とどまり はしりましょう あたしは矢をえらび弾をえらんでとんでいく そのとき ひゅういと笛がなり (ひとはそれを仕留めるといい) (あたしはそれを抱きとるという)」
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