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漢文脈と近代日本 の商品レビュー

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4件のお客様レビュー

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2013/11/24

勉強になった。 「漢文脈」との距離で荷風と谷崎を捉えるという発想に非常に説得させられたり、また、「政治と文学」という問題系は、この本にある「士人と文人」という対立図式からだと違った形で見えるのでは?という気にさせられたり。 という形で、この本の魅力的な発想を土台に、自分でも色...

勉強になった。 「漢文脈」との距離で荷風と谷崎を捉えるという発想に非常に説得させられたり、また、「政治と文学」という問題系は、この本にある「士人と文人」という対立図式からだと違った形で見えるのでは?という気にさせられたり。 という形で、この本の魅力的な発想を土台に、自分でも色々と考えたいという気にさせられます。

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2011/11/12

近代日本の言語文化について、「漢文脈」という視点から捉え直す試み。「漢文」ではなく「訓読文」や「漢文的な思考やふるまいの様式」まで含んだ「漢文脈」という視点を置くことで、近代日本が西洋化していったという物語からは抜け落ちてしまう言語空間を描くことに成功している。 特に面白いなと...

近代日本の言語文化について、「漢文脈」という視点から捉え直す試み。「漢文」ではなく「訓読文」や「漢文的な思考やふるまいの様式」まで含んだ「漢文脈」という視点を置くことで、近代日本が西洋化していったという物語からは抜け落ちてしまう言語空間を描くことに成功している。 特に面白いなと思ったのは、日本の近代文学成立の底流として、「漢文→訓読文→「公/私」の対立→「私」への傾斜」という構図を掲げていること。とりわけこの文脈の中で、森鴎外「舞姫」を論じているあたりは、自分がこれまで読んだ「舞姫」関連論文にはない視点だったので、非常に参考になった。 実際にここでの筆者の指摘は、「於母影」で様々な翻訳実験を試みて二葉亭四迷の「あひびき」の訳業だって知らないはずのない鴎外が、なぜわざわざ太田豊太郎の手記をあのような漢文調にしたのか、という問いへの、説得力のある解答になっていると思う。というわけで、高校国語教員の方はここだけでもぜひ読んでみて。 大正期以降の日本文学の系譜や、西洋から入ってきた思想を新漢語で置き換えて行ったことの影響などについてはもう少し詳しく知りたかったが、全体的には、明治日本の漢文脈について大まかな見取り図を与えてくれる良書。 ところで一方、著者が一篇の詩の語句を解釈する時の丁寧さにも目をみはるものがある。というか、UPの連載やそれをまとめた『漢文スタイル』で明らかだと思うんだけど、筆者は漢詩を読むのがとても好きそう(「山月記」の李徴の詩の解釈も面白かった)。いずれこの著者の「漢詩を味わう入門書」的なコンセプトの本も読んでみたいと思う次第。

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2011/06/12
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

[ 内容 ] 漢文は、言文一致以降すたれてしまったのか、それとも日本文化の基盤として生き続けているのか? 本書は漢文の文体にのみ着目した従来の議論を退け、思考様式や感覚を含めた知的世界の全体像を描き出す。 学問と治世を志向する漢文特有の思考の型は、幕末の志士や近代知識人の自意識を育んだ。 一方、文明開花の実用主義により漢文は機能的な訓読文に姿を変え、「政治=公」から切り離された「文学=私」を形成する。 近代にドラスティックに再編された漢文脈を辿る意欲作。 [ 目次 ] 序章 漢文脈とは何か―文体と思考の二つの極 第1章 漢文の読み書きはなぜ広まったのか―『日本外史』と訓読の声 第2章 国民の文体はいかに成立したのか―文明開化と訓読文 第3章 文学の近代はいつ始まったのか―反政治としての恋愛 第4章 小説家は懐かしき異国で何を見たのか―艶情と革命の地 終章 漢文脈の地平―もう一つの日本語へ [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]

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2010/08/21

 前島密が将軍慶喜に「漢字御廃止之議」との建白を上げ,仮名専用論を称えたのは、1866(慶応2)年末のこと。前島は明治政府になっても同様の意見書を政府関係機関に出し、また右大臣岩倉具視や文部卿大木喬任らに建議している。  森有礼が漢文を簡易英語に替えることの可否を、アメリカの大学...

 前島密が将軍慶喜に「漢字御廃止之議」との建白を上げ,仮名専用論を称えたのは、1866(慶応2)年末のこと。前島は明治政府になっても同様の意見書を政府関係機関に出し、また右大臣岩倉具視や文部卿大木喬任らに建議している。  森有礼が漢文を簡易英語に替えることの可否を、アメリカの大学教授に尋ねたのは1872(明治5)年のこと。  そして福沢諭吉が、漢字二千字から三千字への削減という自 説を、編著の小学校用国語読本に添えて示したのが1873(明治6)年だった。  以後、大正・昭和とこの漢字廃止,制限論可否の議論は延々と続く。今日の常用漢字の範囲をめぐっても賛否両論は避け難い。  これらの議論に,一海知義のエッセイ「日本語の中の漢字文化」では、漢文調による権力のこけおどしの例として、明治憲法や教育勅語(原文は漢文で六朝の美文の模倣だった)それに敗戦時の詔書などをあげている。  以上の背景をもとに本書を読むと,なかなか興味深い。幕藩体制のもとで、特に寛政の改革により正当化された朱子学をもとに,幕府・各藩の教化体制の制度化があり,やがて近代日本の成立と展開を、漢文脈との関わりで追ってみたもの。  明治と云うと言文一致の二葉亭四迷を先ず思い出す。しかし本書の切り口は「明治初期では、現代かそうでないかの境界は、文語と口語の間にあったのではなく、漢文と訓読文の間にあった」。この訓読文が文明開化にふさわしい文体とされたのだとする。  そして「日本の近代は,漢詩文的なるものから離脱することに依って,もしくはそれを否定することに依って,あるいはそれと格闘することによって成立した」その延長にわれわれは生きている、と。  「漢文脈でこそ表現しうることがあることに気づくことで、現代日本語の世界を相対化し、その限界と特質を知ることが」できる、と本書はむすぶ。  「この土手に上るべからず警視庁」という制札があったそうだが、漢文脈の明快便利さは確かに一顧の価値がありそうだ。  と同時に,現代日本語の漢文脈的表現のあり方についても、強いて何かを固守しなくても時代がその流れのなかで解決していくものではないだろうか。    登場する人物はザッと眺めても多士済々。服部南郭/藤田東湖/近藤勇/大沼枕山/頼山陽/徳富蘇峰/森田思軒/山路愛山/福沢諭吉/中村正直 /久米邦武/森春濤/森鴎外/夏目漱石/永井荷風/谷崎潤一郎/ 芥川龍之介/国木田独歩/田山花袋/島崎藤村/柳田國男等々。                          

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