逆立ち日本論 の商品レビュー
前半の第一章と第二章は非常に面白かった。 特に、第二章の「ユダヤ人は神に選ばれた民」から「ユダヤ人の視覚への禁忌」までに、この本の面白さの8割が詰まっている気がする。 他の部品は、ぶっちゃけ俺にはよく分からなかった。 人間の本質的な「遅れ」の議論、時間性と宗教性、言語による思考...
前半の第一章と第二章は非常に面白かった。 特に、第二章の「ユダヤ人は神に選ばれた民」から「ユダヤ人の視覚への禁忌」までに、この本の面白さの8割が詰まっている気がする。 他の部品は、ぶっちゃけ俺にはよく分からなかった。 人間の本質的な「遅れ」の議論、時間性と宗教性、言語による思考の限定、自己同一性、時間と「主体と他者」の関係性、視覚と聴覚のズレ…。 何を言ってるのかさっぱり分からないけど、とにかく全く聞いたことのない発想に感銘を受けてしまう。 とりあえず、最初からここまで読んでおけば脳みそが嵐になるのではなかろうか。 個人的には、「哲学的な何か、あと科学とか」の哲学史メニューで言っていた 「人間は、気がついたら生きていた。なぜ生きているのか全く分からぬままに。」 みたいな部分とのリンクを感じた。 うーむ、これをよく理解して言語化できるような知性が欲しい…。
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内田樹氏と養老孟司氏による高級漫才本(笑)。興味深い話題が次々と出てくる。たとえば、死体は武器になるという話。日常に死体という非日常が入り込んだとたんそれが、最優先事項になってしまう。絶対に無視することができない。だから、やくざがもし乗り込んできたら、人体標本の手を机におもむろに...
内田樹氏と養老孟司氏による高級漫才本(笑)。興味深い話題が次々と出てくる。たとえば、死体は武器になるという話。日常に死体という非日常が入り込んだとたんそれが、最優先事項になってしまう。絶対に無視することができない。だから、やくざがもし乗り込んできたら、人体標本の手を机におもむろにゴロンと置けば、その状況に対応できなくなる。これを俗に先手を取るというのである。(冗談) 表題にもなってる逆立ち日本論は、ユダヤ人問題を考えることから、はじまっている。ユダヤ人というのは、どうもどういう存在なのかはっきりしない。日本人というような同種の集団カテゴリーと同一のものと安易に設定することはできないのだ。そこで「ユダヤ人はなになにである」という命題を立てるのではなく、「ユダヤ人はなんではないのか」という「AがBでないとはどうしたらいえるだろうか」という対偶の問いを立てることで問題設計する方法を逆立ち思考としているのである。ユダヤ人は「私ならざるもの」に冠された名であって、それゆえに、それについて語った瞬間に自分自身を語ることになってしまう。またその根底にはレビナスのいう「始原の遅れ」があるという。わかりやすく例えるなら、「気づいたらすでにゲームは始まっていて、自分はフィールドでプレイしているんだけど、ルールがわからない状況」があって、プレイしているうちにルールらしくものがいわば、遅れてわかってくるというものである。彼らのこういった「遅れ」の感覚が私はこう思うではなく、私がこう思うようになったのはなぜだろう?という一段上の思考を可能にしているという。こうしたユダヤ人とは何か?という問いは日本人とはなにかという疑問を揚棄させずにはいられなくなる。 当たり前と考えていることが、実は共同幻想に過ぎないのだということを意識させられた刺激的な本であった。
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結局ユダヤ人とは誰かについての一義的な定義にはいきつかない。 ユダヤ人とは誰かについての本質的な問いに答えないままにユダヤ人人口を云々するのは論理的にはまことにナンセンスなことであるが、現にユダヤ人は存在する。 ユダヤ人というのは入口だけあって、出口のない世界、恐ろしく奥が深いの...
結局ユダヤ人とは誰かについての一義的な定義にはいきつかない。 ユダヤ人とは誰かについての本質的な問いに答えないままにユダヤ人人口を云々するのは論理的にはまことにナンセンスなことであるが、現にユダヤ人は存在する。 ユダヤ人というのは入口だけあって、出口のない世界、恐ろしく奥が深いのだ。日本のようにユダヤ人がほとんど存在しない社会でさえ反ユダヤ主義が存在することができる。 反ユダヤ主義がなぜあれほど圧倒的な大衆動員力を持ったのかは彼らの内側にうごめいている名づけようのない不安や恐怖に創造的に共感してもないとわからない。 サルトルはユダヤ人とは、他の人々がユダヤ人だと思っている人間だと定義した。一方レヴィナスは、ユダヤ人とは他の諸国民よりも多くの責任を負うために神n選ばれた人間だと定義した。 ユダヤ人はよくものを考える人たち。つまり意識という機能を徹底的に使っている。 ユダヤ人は迫害されるものであり、だからこそフランクルの話も迫害から始まる。フランクルは運がよく生き残れた。運命だ。 フランス・ユダヤ人はヨーロッパで一番どうかが進んでいました。 中国のトップなんか13億人を率いて権謀術数に長けていて党内闘争を生き抜いてきたんだから、小泉さんやらでも勝負にならない。 ユダヤ今日五の共同体が解体するのはインドと中国。仏教の本家と老荘思想の国だとさすがのユダヤ教も個性を発揮できない。 頭の悪い人とは話せない。ロジカルじゃないから。 フランス語がどのくらいできますか?って聞かれたら、頭にいいうランス人とだったら結構しゃべれるけれど、頭の悪いフランス人とはほとんどしゃべれません。ってのが内田さんの名言。 言葉には力のある言葉と、力のない言葉があって、力がある言葉に人間は反応する。
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そういう考え方があるのか、そこまで考えるのかとなるほどと思えることばかり。 でも鵜呑みにしないでそこから自分で考えなくては。
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内田教授の「私家版・ユダヤ文化論」を補完するような対談。丁々発止、というよりは、長老の懐でのびのび暴れる、といった趣か。
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264.07.6/10.2刷、並、カバスレ、帯付。 H.21.10/9.松阪BF. 2007年8月10日4刷、並、帯なし 2013年8月11日松阪BF。
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対談ではあるけれど、内田さんの分量の方が多いと思う。大半は過去に出版されたものやブログで発表されいる事柄の繰り返しだけど、養老孟司という「師」のアシストにより、内容がより理解を深める方向に働いている。
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なかなか興味深かった。なかなかゆるいテンポで難しいことをおっしゃるかんじで。 でも、中庸って精神は大事だよね。なかなか保つことは難しいけど。
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いろいろ言いたい放題いってて「日本論」という核はあまり見えてこないが、 内田さんのいう「第三の身体」という武道の考えはおもしろい。 武道では、相手を「倒す」のではなく、自分の身体と相手の身体を二つながら含む「第三の身体」をどう動かすか、考える。 それと同じように、新しいファクター...
いろいろ言いたい放題いってて「日本論」という核はあまり見えてこないが、 内田さんのいう「第三の身体」という武道の考えはおもしろい。 武道では、相手を「倒す」のではなく、自分の身体と相手の身体を二つながら含む「第三の身体」をどう動かすか、考える。 それと同じように、新しいファクターが加わったときに、それを邪魔者だとか懲らしめてやろうだとか考えるのではなく、 お互いなんとか折り合うようにするシステムを構築するにはどうしたらいいか考えるようにすれば、少しは肩の力が抜ける気がする。 人間関係、仕事、人生、いろんな悩みに応用の利く考えかたなのではないかな。
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日本を代表する論客二人の対談。「トランポリンの上の相撲」などの表現は秀逸。楽しそうだなー。予防か対処か。難しいところだ。養老→内田・中沢→太田、くらい?最近面白いオトナというのは。太田は面白くてなんぼだけれども。
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