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国家とマルチチュード の商品レビュー

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2018/11/30

廣松渉の思想に検討を加えた本ではなく、廣松の四肢的構造論やマルクス解釈などを踏まえながら、ネグリらの論じる「マルチチュード」の考えとの接点をさぐるとともに、フーコーの生権力の問題や天皇制をめぐる問題、さらに「近代の超克」論やエコロジーにかんする問題など、左派論壇においてとりあげら...

廣松渉の思想に検討を加えた本ではなく、廣松の四肢的構造論やマルクス解釈などを踏まえながら、ネグリらの論じる「マルチチュード」の考えとの接点をさぐるとともに、フーコーの生権力の問題や天皇制をめぐる問題、さらに「近代の超克」論やエコロジーにかんする問題など、左派論壇においてとりあげられるさまざまな問題に対する著者自身の考えを示した本です。 「所与-所識」「能知‐能識」によって構成される廣松の四肢的構造論は、従来のマルクス主義者たちが陥ってきた「前衛‐大衆」の図式における物象化の錯認を批判するような視座を提出していることに著者は注目します。そこには、多様性に開かれた共同主観性の考えが示されており、ネグリの「マルチチュード」の発想と共鳴するような意義があるという見方が示されます。 こうした見方そのものは、ある程度興味深く感じたのですが、それによってフーコーの批判する生権力を解体することができるのか、やや疑問がのこるように感じています。廣松の物象化批判は、「事的世界観」という生の事実性に定位するものですが、フーコーが指摘するのは、そうした次元がすでに権力構造によって媒介されたものであるほかないということだったのではないかと考えます。

Posted byブクログ