村上春樹論 の商品レビュー
読みの精度はすさまじ…
読みの精度はすさまじいです。確かに。でも、作品を壊しすぎてる感も。。。ここから如何に自分の読み方を作り上げるかが、この本の最大の利用方法だと思います。
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警告の書と言ってよいだろう。 成毛眞の本を読んで『海辺のカフカ』を 読んでみたいと思った。成毛の本も決して 『海辺のカフカ』を絶賛していたわけではなかった。 ただ一週間も会社へ行けないくらいの 衝撃があったらしく興味深くもあった。 今思えば直近に『ドライブ・マイ・カー』や 『カラ...
警告の書と言ってよいだろう。 成毛眞の本を読んで『海辺のカフカ』を 読んでみたいと思った。成毛の本も決して 『海辺のカフカ』を絶賛していたわけではなかった。 ただ一週間も会社へ行けないくらいの 衝撃があったらしく興味深くもあった。 今思えば直近に『ドライブ・マイ・カー』や 『カラマーゾフ』を読んだり観たりしたのも 関係あったかも知れない。 『海辺のカフカ』は読後何かモヤモヤした スッキリしないものがあったのだ。 その理由を知りたくて本書を繙いてみたが なんとなくその歯に何か挟まった感は 薄らいだ気がする。 よく言われることだが村上春樹の 「女性嫌悪(ミソジニー)」と戦争認識。 内田樹もそうだったがあの年代にありがちな マッチョ感が違和感の正体だったように思う。 「村上氏の作品は濃厚な米国や西側社会への 憧れがあるが、日本社会は今ではそれほど 米国を崇めていない。そのため彼の作品は 少し時代遅れの感がある」(島田雅彦) 同意するところだ。 本書終盤、戦争の不条理、残酷さのところは 今のロシア・ウクライナ侵攻のおぞましさを 想起した。
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著者は現在、東京大学大学院教授で、夏目漱石をはじめとする日本近代文学研究の第1人者の1人。また「9条の会」事務局長を務める。本書は、『海辺のカフカ』論だが、まずは物語の基軸であるオイディプス神話をフロイトの理論を用いて構造解明してゆく。そして、「女性が性的欲望を抱くことが罪」であ...
著者は現在、東京大学大学院教授で、夏目漱石をはじめとする日本近代文学研究の第1人者の1人。また「9条の会」事務局長を務める。本書は、『海辺のカフカ』論だが、まずは物語の基軸であるオイディプス神話をフロイトの理論を用いて構造解明してゆく。そして、「女性が性的欲望を抱くことが罪」であり、根底には「女性嫌悪」があると述べる。また本書に内在する「歴史の否認」、「思考の処刑」、あげくは村上春樹の「転向」をも厳しく糾弾していく。村上春樹ファンにはとうてい容認できないだろうが、1つのテクスト論として傾聴に値する書物だ。
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小森陽一氏の村上春樹論である。『海辺のカフカ』を再読した後、この本を読んでみようと思い立ち、再読をして今回読み終えた。 自分自身の研究のアプローチに役立った点がある。自分が援用しようとする理論を十分に説明した後で、それを作品の解釈に当てはめていく点である。まあ当然のこととはいえ、これをやることが必要なのだなと改めて感じた。 小森氏はこの『海辺のカフカ』において村上春樹を痛烈に批判する。そして文学の貶めるものだという。だが、かくいう小森氏の文学観はどこから来ているのだろうか。どうもそれが十分に説明されているとはいいがたい。その文学観はアプリオリに設定されていて、自明のもの、そしてそれしかないもののように扱われている。そしてそれに、『海辺のカフカ』は反している、と批判しているのだ。 その批判の論旨はそれなりに説得力がある。『海辺のカフカ』における「入り口の石」の意味など、新たに理解できるものもある。だが、氏が批判する『海辺のカフカ』に示された諸々のものを読者に提示するということも、また文学の意味合いであり、働きなのではないだろうか。 私には、村上春樹が『海辺のカフカ』で提示したことそのものこそが、現代日本の姿であり、現代という社会のありようなのだと思う。そうした中で我々は生きざるを得ないのであり、その中にあってわずかな希望を、ラストシーンで田村カフカ君が示しているのではないか。 無論、私は筋金入りの村上春樹ファンである。よって、批判意見はあまり賛成できないというバイアスがかかっている。それを認めた上でも、やはり小森氏の批判もまたある種のバイアスがかかっているように思う。
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こじつけとしか考えられない箇所が多いにも関わらず堂々と批判していらっしゃいました。でも、目のつけどころが良いといいますか、自分では(当たり前ですが)気づけないポイントに視点を合わせて説明なさっていて、この人頭いいな、と思いました。笑。たくさん読み込んでるんでしょう。単なる解説本よりはるかに面白かったです。TVタックルだと大人しめなのにね。
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深い。。。 目次 第1章 『海辺のカフカ』とオイディプス神話 オイディプス神話という主題 『オイディプス王』の物語 ほか 第2章 甲村図書館と書物の迷宮 図書館という母性的空間 なぜ『千夜一夜物語』を最初に読むのか ほか 第3章 カフカ少年はなぜ夏目漱石を読むのか? 甲村図書館と書物の迷宮2 カフカ少年は『坑夫』と『虞美人草』を読む 「近代教養小説」という視点 ほか 第4章 ナカタさんと戦争の記憶 ナカタさんの出自 記憶の欠落と識字能力の喪失 ほか 第5章 『海辺のカフカ』と戦後日本社会 カーネル・サンダーズが語る「天皇の人間宣言」の虚偽 「生き霊」と『菊花の約』の意味するもの ほか
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[ 内容 ] 日本、アメリカ、中国等で大ヒットした『海辺のカフカ』。 カフカ少年とナカタさんのパラレルな物語に“癒し”や“救い”を感じた人も少なくなかった。 けれども、本当にそういった内容なのだろうか? 丁寧なテクスト分析によって、隠された構造が浮かび上がる。 暴力が前面に現れつ...
[ 内容 ] 日本、アメリカ、中国等で大ヒットした『海辺のカフカ』。 カフカ少年とナカタさんのパラレルな物語に“癒し”や“救い”を感じた人も少なくなかった。 けれども、本当にそういった内容なのだろうか? 丁寧なテクスト分析によって、隠された構造が浮かび上がる。 暴力が前面に現れつつある「九・一一」後の世界に、記憶と言葉の大切さを訴える、渾身の村上春樹論。 [ 目次 ] 第1章 『海辺のカフカ』とオイディプス神話(オイディプス神話という主題 『オイディプス王』の物語 ほか) 第2章 甲村図書館と書物の迷宮(図書館という母性的空間 なぜ『千夜一夜物語』を最初に読むのか ほか) 第3章 カフカ少年はなぜ夏目漱石を読むのか-甲村図書館と書物の迷宮2(カフカ少年は『坑夫』と『虞美人草』を読む 「近代教養小説」という視点 ほか) 第4章 ナカタさんと戦争の記憶(ナカタさんの出自 記憶の欠落と識字能力の喪失 ほか) 第5章 『海辺のカフカ』と戦後日本社会(カーネル・サンダーズが語る「天皇の人間宣言」の虚偽 「生き霊」と『菊花の約』の意味するもの ほか) [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
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よくわからない。「カフカ」そのものも筋は気にしていない。なんとなく「大公トリオ」とか大島さんのキャラが好きなだけだもんなあ。
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彼の関心から考えた場合予想できる議論なのだろうが...うがった読み方、酷い誤読と思ってしまった。 私が『海辺のカフカ』を読んだのは数年前だから、細かい話をよく覚えているとはいえない。でも小森氏がしつこく繰り返す、暴力が<いたしかたのないこと>として許容されているというのは一体...
彼の関心から考えた場合予想できる議論なのだろうが...うがった読み方、酷い誤読と思ってしまった。 私が『海辺のカフカ』を読んだのは数年前だから、細かい話をよく覚えているとはいえない。でも小森氏がしつこく繰り返す、暴力が<いたしかたのないこと>として許容されているというのは一体どこから来た発想? 私は『海辺のカフカ』から別に<癒し>は得なかったから、小森氏が想定している読者ではないけど...むしろこの小説の終わり方は、(父親の殺人事件など)身に覚えのないことについても責任をとるということだと思ったんだけど? いま文庫版下巻の終わりの方を見てみたら: ‘「君はこれからどうするつもりなんだい?」と大島さんは質問する。 「東京に戻ろうと思います」と僕は言う。 「東京に戻ってどうする?」 「まず警察に行って、これまでの事情を説明します。[...]」 「逃げまわっていても、どこにも行けない」 「たぶん」と僕は言う。 「君は成長したみたいだ」と彼は言う。 僕は首を振る。僕にはなにも言えない。[...] 「いつ東京に帰る?」 「今からもう帰ろうと思います」 「夕方まで待たないか?図書館を閉めてから、僕の車で駅まで送ってあげるよ」 僕は少し考えてから首を振る。「ありがとう。でもたぶん、今すぐ出ていったほうがいいと思うんです」 大島さんはうなずく。’ (pp. 518-519, 521) これって身に覚えのないことについても責任をとらなきゃいけないってことじゃないの?とりあえず、起きてしまったことをただ<いたしかたのないこと>として放っては(許容しては)いないと思うんだけど... それから一番わからないのは、小森氏はちらほらとポスト構造主義的キーワードを登場させ、フーコーやデリダの名まで出しているのに、というかそもそもフロイトやラカンの主体理解に拠っているらしいのに、そこからの議論がまったく正反対の方向に向かっているように感じられるところ。 私は精神分析は不勉強だけど、そういう、言語によってsplitされた主体というものを問題視するのが彼らの議論じゃないの?フーコーやデリダでも、他者から分割された自己(≒主体)を問題視するのがまず出発点だよね?確かに私自身はデリダとともに‘主体’に留まる考え方なのだけど、でもその‘主体’は、デカルト的、近代的な、小森氏のいう‘自分を連続的かつ統一的に把握する’(p. 50)主体や、‘自らの行動を合理的な思考と判断において内省する統一的な自我’(p. 175)ではないよ?だいたい‘自我’と‘自己’は違うし! しかもラカンや晩年のフーコーの議論からはふつう、言語による分割を超えた、言説やrelational powerに取り込まれない主体が、思考されると思うけど?? 小森氏の議論は言語至上主義に感じられる。別に意見は異なって構わないけど、それならなんでラカンやフーコーやデリダを持ち出すのかな...私にはこっちの方が、小森氏が村上氏を非難する上で多用する表現である‘流用’に思えて仕方ない。 村上氏や、河合隼雄氏(が関わっていた箱庭療法)の考え方はそれとは違って、言語による二項対立、二者択一的表現を超えたところに可能性を見出そうとしてるのだと、私は理解している。『海辺のカフカ』の、やはり最終章には: ‘「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから。」’ (p. 509) 小森氏は村上氏を批判しようとして、この小説は‘二者択一不可避な状況設定をし’ている(p. 172)と書くが...私には小森氏の方がよほど、善悪とか、言葉と視覚的イメージとか、「民主主義的パーソナリティ」と「権威主義的パーソナリティ」とかの二項対立を駆使した議論を展開していると、思えてしまった。 因みに。私も村上作品の登場人物には共感できないことが多い。私が女性だからか、セクシュアルなことにお固いタイプだからかはわからないが。だから別に彼のファンとして小森氏を批判しているのではない(と、自分では思う)。戦争や学園紛争は彼の作品にずっと通奏低音のように横たわってるし、そこを論じるのは大切なことだと思う。 でも、団塊の世代の女性を母として育った私としては(笑)、彼らの‘限界’は‘父親の世代の「戦後」の欺瞞を批判しつつも、戦前戦中の戦争責任までは問わな’かった(p. 242)ことにあるというより、戦前戦中の‘右向け右’が学園紛争では‘左向け左’になっただけで、結局構造的に同じだったところにあるという理解なのダ。 そして私は、村上氏自身はこの小説で自分の属する団塊の世代を‘自己批判’してると、思ったんだよね...
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