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エセー(1) の商品レビュー

4.1

16件のお客様レビュー

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2023/03/09
  • ネタバレ

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いやいや、とんでもないものに手を出してしまいました。 私が一番信頼している読書系サイト『本が好き』でさえ、フレイザーの『金枝篇』を読んでいる人はたくさんいても、この本を読んでいる人が一人もいない! だれだよ、私にこの本勧めたの。 第1巻は25章に別れていますが、20章を読み終わってまだ半分くらい。 最初の方はエッセイと言うよりも、哲学や歴史についてを読んでいる気がしました。 塩野七生の『ローマ人の物語』、ダンテの『神曲』、佐藤賢一のフランス史物などを読んでいたおかげで、思ったほどつらくはありませんでしたが、やっぱり知識の不足が残念だなあ。 ”わが国では、分別(サンス)がない人間のことを「あの人は記憶力(メモワール)がない」などというものだから、それでもってわたしが、自分の記憶力のなさを嘆いたりすると、なんだか自分に分別がないことを認めたかのように(後略)” 記憶力がないということは分別がないと判断されてしまうというところに、フランスの厳しさがあるなあ。 日本人でよかった。 ”われわれの宗教は、生を軽視すること以上に、確かな、人間的なよりどころをもってはこなかった。(中略)実際、失ってしまったら、惜しむこともできないものなのに、それを失うのがどうしてこわいというのか?” 死への怖れというのは、人間が根源的に持つ感情だと思うので、それが過剰なときに恐怖を軽減するための宗教というのは有効だとは思う。 だけど、今度はそれが行き過ぎて、来世の幸福をエサに死を軽んじさせる宗教も現れるから、何事もほどほどがいいと思うんだよなあ。 日本の場合、行き過ぎた廃仏毀釈が、宗教と生活を切り離してしまったことで、新興宗教につけ要られる隙を作ったのではないかと最近思っています。 ”子供にとって、遊びとは、ただの遊戯ではなく、彼らのもっとも真剣なふるまいだと考える必要があるのだ” 「子どもは遊びで遊んでるんじゃないんだよ」by我が家の次男 ギリシャやローマ時代の古典の引用を多用しながら ”わたしだって、こんな、受け売りの、物乞いするような能力は、好きでもなんでもないのだから。 われわれは他人の知識で物知りにはなれるかもしれないが、賢くなるには、自分自身の英知によるしかない” と自分の言葉でいいことを書いた後、引用の羅列。 遊んでいるのか、自虐なのか。 ”お子さんが、知能を獲得されたら、それを浪費せずに、節約するように、そしてまた、目の前で語られる、ばかげた与太話などには腹を立てないように教育することです。なぜといって、自分の好みに合わないものには、なんにでも食ってかかるとなどというのは、不作法で、はた迷惑なことだからです” 今の日本にこそ、必要な一言。 ”歴史を覚えさせるよりも、それについて判断することを教えるべきなのです” 判断するためには、歴史をある程度知らないとね。 とはいえ、モンテーニュが語る学校への不満って、今と全然変わらない。 規則や体罰などで子どもを縛るな、とおっしゃってます。 ”これでは、まるで青春を閉じ込めておく牢獄ではありませんか” ところで、「エセー(随想録)」というので、「枕草子」や「徒然草」のような身辺雑記から発するあれこれかと思ったのですが、それよりちょっと宗教・哲学寄り。 ちょうどフランスの宗教戦争の頃でもあり、ちらちらカトリックの影響も見えます。 だけど、書いた当初はこれ、時事問題くらいの感覚だったのかしら。 今読むとがっつり歴史なのですが。 あと、最後の方で、自分が勉強をできないことの言い訳めいたことを結構長く書いてますが、誰かに何か言われたのでしょうか。 どうしたモンちゃん、ちょっと引くぞ。

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2020/09/13

コロナ禍で読書の時間が増え、この機会に古典を読んで有意義な時間を過ごそうと手に取った1冊。読みやすさを重視した翻訳に助けられ、楽しく読み切ることができました。とても16世紀に書かれたとは思えない、現代にも通ずる本質を見通したご意見の連続で、まさに今語りかけられているような気持ちに...

コロナ禍で読書の時間が増え、この機会に古典を読んで有意義な時間を過ごそうと手に取った1冊。読みやすさを重視した翻訳に助けられ、楽しく読み切ることができました。とても16世紀に書かれたとは思えない、現代にも通ずる本質を見通したご意見の連続で、まさに今語りかけられているような気持ちになります。この1巻で特に印象に残ったのは哲学と教育に関する章。哲学は本当は陽気で元気いっぱいで楽しくて茶目っ気たっぷりのものと説いたり、教育は子どもの自発性を促すものと説いたり、当時の主流に対するアンチテーゼを提示している点が興味深かったです。

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2019/04/09

うーん ちょっとしか読まなかった。 これを読むのは、もっとじじいになってからでいいかな。 今はまだいいや。

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2018/01/20

「私はなにを知っているのだろうか?」 連綿と続く修辞の洪水、引用の濁流、、、 --- 「わたし自身が、わたしの本の題材なのだ」

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2015/08/10

16世紀に書かれたモンテーニュの随筆。根が暗いのでこれを読んで以来「人生に、ふんわりとした平静さ」をもたらす為に夜な夜な死について考えてる。 第19章「哲学することは、死に方を学ぶこと」 死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。 人生を大いに謳歌したとい...

16世紀に書かれたモンテーニュの随筆。根が暗いのでこれを読んで以来「人生に、ふんわりとした平静さ」をもたらす為に夜な夜な死について考えてる。 第19章「哲学することは、死に方を学ぶこと」 死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。 人生を大いに謳歌したというなら、もうたらふくいただいたのだから、満足して立ち去るがいい。 人生は、それ自体は善でもなければ、悪でもない。お前のやり方次第で、それが善の場ともなれば、悪の場ともなるのだ。 人生の有用性とは、その長さにではなく、使い方にある。 死んで不幸になった人間を、見たことがあるか?

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2022/10/14

放送大学「歴史と人間」 第8回(5月31日) モンテーニュとマリー・ド・グルネー 第9回 マルタン・ゲール、メノッキオ、そしてピナゴへ http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H27/kyouyou/B/kiso/1234226.html 文学のエコロジー ...

放送大学「歴史と人間」 第8回(5月31日) モンテーニュとマリー・ド・グルネー 第9回 マルタン・ゲール、メノッキオ、そしてピナゴへ http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H27/kyouyou/B/kiso/1234226.html 文学のエコロジー http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H26/kyouyou/B/sougou/1847449.html

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2014/12/30
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※このレビューにはネタバレを含みます

モンテーニュ(宮下志朗訳)『エセー』(1)白水社、2005  ミシェル・モンテーニュ(1533年〜92年)はフランス南西部ボルドー付近に生まれ、ユダヤ系だったらしい。少年期は父の雇った医師によってラテン語で育てられ、トゥールーズで法学を学び、法官になった。父が死ぬとモンテーニュ城を相続し、37歳で法官を引退し、1570年から『エセー』を書き出す。出版は1580年だが、88年版に加筆をしており、本書は『エセー』のファンであったグルネー嬢が整理した1595年版にもとづいている。  この本は第1章から第25章までを収めている。長短さまざまな随筆で、主張するところは良識とか、人間の能力の頼りなさとか、歴史の重視などである。モンテーニュの生きた時代に関する考察も多い。それは「戦争というものはそもそも良識をそこなっても理屈がとおる、多くの特権を有している」時代だった(第六章「交渉のときは危険な時間」)。法官らしく「意志以外に、われわれが支配できるものはないのだから、必然的に人間の義務に関するルールは尽く意志なるものにもとづいて構成される」(第七章)と言ったりする。哲学的な問題も論じ、「恐怖というものが、われわれにとっては死よりも、はるかにやっかいで、がまんできないものである」(第十七章)「死のほかは、なにごとでも仮面をつけることができる。……この大詰めにおいては、もはや見せかけもなにもなくて、率直にやりあうしかない。壺の底にたまった、まじりっけなしのものを見せるしかないのだ」(第十八章)。「人生は、それ自体は善でもなければ、悪でもない。おまえのやり方次第で、それが善の場ともなれば、悪の場ともなるのだ。もしおまえが一日生きたならば、それですべてを見たことになる。その一日はすべての日と等しいのだ」(第十九章)など、考えさせられることも多い。第二十章「想像力について」は、ショック死や性同一性障害、邪視、浣腸、「魔法の結び目」(結婚初夜の性的不能)などについて論じていて、科学史の材料としても興味深い。第二十一章「習慣について、容認されている法律を安易に変えないことについて」では、主にヘロドトスを論拠にいろいろな習慣のちがいについて論じている。伝聞にのっとっているので、にわかに信じがたいものもある。ちなみにモンテーニュの時代、中国の情報はまだ伝わっていないはずだが、インドの習俗には言及がある。また、この項目には宗教改革を「あやまちの数々を打倒しようとして、確実で十分にわかっている悪徳を、あれこれと推し進め」、「自己の良心や、ごく自然な知識・経験を攻撃するような悪徳」としている。第二十四章「教師ぶることについて」と第二十五章「子供たちの教育について」は教育論である。「勉学への意欲と愛情とをそそること、これがなによりも肝心なのです。さもないと、たくさんの書物を背負わされたロバができあがるだけです。……しっかりと学問をおこなうには、ただ自分の家に泊めるだけではだめで、学問と結婚しなければいけないのであります」という。知識でなく判断力を育てるには「その精神の力量に応じて、ものごとを味わわせ、みずから選択、判別させるようにして、とにかくその歩様をきちんを見守ってあげることです」、「子供たちの歩調を受けいれた上で、彼らを導いていくというのは、高尚にして、強靱な精神によってはじめてなしえる」としている。   全体に軽妙して含蓄に富むが、こういうエッセーというのは、どう書いても自己中心的になるのは避けられないと思う。それはモンテーニュも自覚しているようで、「こんなたわいない、むなしい主題のために、きみの暇な時間を使うなんて、理屈にあわないではないか。では、さらば」と最初に言っている。

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2012/07/01

仕事の休憩時間の愛読本。びっくりする内容が淡々と平易な文章で語られていて、何とも面白い。勿論モラリストとしての随想もあり、時代を選ばずに読み継がれているのも納得の古典。だからフランス文学はやめられない。

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2011/10/16

 第二十五章 衒学について (a)われわれは他人の意見や知識をしまっておく。そしてそれでおしまいである。だがそれをわれわれ自身のものにしなければならぬ。われわれは、火が必要になって、隣にもらいゆき、そこに火がたっぷり赤々と燃えているのを見ると、腰を据えて温まり、自分の家へ火を持...

 第二十五章 衒学について (a)われわれは他人の意見や知識をしまっておく。そしてそれでおしまいである。だがそれをわれわれ自身のものにしなければならぬ。われわれは、火が必要になって、隣にもらいゆき、そこに火がたっぷり赤々と燃えているのを見ると、腰を据えて温まり、自分の家へ火を持って帰るのを忘れてしまう人によく似ている。(中略)ルクルスは戦争の経験がないのに、書物を読むだけであれほどの偉大な将軍になったが、はたしてわれわれのようなやり方で書物の知識を身につけたのだろうか。  読書を習慣とするものは、みな多少なりともこの文章にドキリとするのではないだろうか。読書は他人の頭脳を借りる行為であるから、ただ答えを得るためにそれを求めるとかえって愚鈍になりかねない。 モンテーニュがいうように少なくとも賢くなるためにはわれわれ自身の知恵によるしかないのだから。

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2011/06/08

大学の授業の教材ですこし読んで そのあとすぐ 古本屋に行って原本買ったことを覚えてます ものの見方とか とらえ方の教習本みたいな感じ

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