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潤一郎ラビリンス(9) の商品レビュー

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2011/02/12

この巻に収められている3編のうち、巻頭の「襤褸の光」は短い小品、巻末の「浅草公園」は6ページくらいしかない随筆だ。前者は大正期の谷崎作品にやたら多い「芸術(家)」「天才」という言葉が連発される「芸術」志向小説で、どちらかというと駄作。 問題は、この巻の大半を占め、しかも最後に「前...

この巻に収められている3編のうち、巻頭の「襤褸の光」は短い小品、巻末の「浅草公園」は6ページくらいしかない随筆だ。前者は大正期の谷崎作品にやたら多い「芸術(家)」「天才」という言葉が連発される「芸術」志向小説で、どちらかというと駄作。 問題は、この巻の大半を占め、しかも最後に「前編終り」と記され中絶している「鮫人(こうじん)」である。 いつもの谷崎の文章となにか違う!と、読み始めてすぐに気づく。やたらに描写が長いのだ。作中人物の描写やら、浅草公園の描写やらにそれぞれ何ページも費やしている。他の谷崎小説にはこんな文章は無い。 巻末の解説を読めば、なるほど、バルザックの影響らしい。 人物の顔の描写に何ページもかけるバルザック流文章は、その中身にはさほど意味はない。ただ、「対象」を描写しようというその作者のエネルギーが、ビッグウェーブのように読者に襲いかかる、そのダイナミズムにのみ、意味があるのだ。そうして、そのエネルギーの奔出がやがて「物語」の展開へと向けて怒濤の流入へと推移していくとき、読者はめくるめくような感覚に全身をひらかざるを得ない。一種の暴力的文章である。 そしてこの作品、どうやら夏目漱石の『明暗』に対抗して書かれたものらしく、語りの「視点」が人物から人物へと、次々に移ってゆく。 かくして極めて動的な小説身体が形成される。 だが何と言っても、谷崎文学の神髄は、作者・読者・人物の視点から「対象」に注がれるまなざしがエロスの気配を漂わせるときに、エロティックな陶酔の内に主体は行動不能に陥り、まなざしの主体から対象へと「権力」が推移してしまう倒錯の結果、マゾヒスティックな関係構造が出来し、主体はなすすべもない痙攣に身をさらすという、独特の体験にある。 この小説でもまさにその現象が起きようとしている。 中国人なのか日本人なのか、よくわからない正体不明の女優少女「林真珠」は、さらに女なのか男なのかもよくわからなくなる。この謎の生命をめぐって、多くの人物たちが右往左往し始める。 そうしていよいよプロットが展開し、彼女が行動を始めようとするその瞬間、小説は未完のまま終わってしまう。 実に惜しい。 谷崎は、付け焼き刃のような「バルザック式描写」に疲れてしまったのだろうか? 漱石の『明暗』と同じように、無限に人物のあいだを巡回していく小説構造が、やはり作品の「未完」をもたらすのだろうか? 谷崎潤一郎がもう少し我慢して、この小説の「後編」を書き上げていたとしたら、これは彼の「初期の傑作長篇」になったに違いないと思う。 いよいよ行動を開始し、権力を手中におさめた「林真珠」が、読み手の主体をどんなふうに痺れさせるか、想像してみるとといよいよこの作品の中断が惜しまれる。

Posted byブクログ

2010/10/16

「浅草小説集」として三編収録されていますが、そのほとんどを占めるのが「鮫人(こうじん)」なので、それについて。 中国では、人魚のことを鮫人というらしい。ダダイストの辻潤がモデルになったりダシに使われている作品がいくつかあると本人も『ふもれすく』に書いていて、これもそのひとつなん...

「浅草小説集」として三編収録されていますが、そのほとんどを占めるのが「鮫人(こうじん)」なので、それについて。 中国では、人魚のことを鮫人というらしい。ダダイストの辻潤がモデルになったりダシに使われている作品がいくつかあると本人も『ふもれすく』に書いていて、これもそのひとつなんですけど、主人公・服部が没落した家の出であること、酒に耽溺し、浅草の芝居小屋に入り浸り、役者にたかって生きているといった人物設定以外には、辻との共通項はあまり見出せません。谷崎潤一郎と辻は一時期親交があったので、モデルというより生い立ちを借用した程度といった感じです。 なのではじめ“鮫人”は服部のことかと思ってましたが、読み進めるうちにどうも違うような気がしてきました。物語には服部が心を寄せる、林真珠というまだあどけない女優が登場します。どうも彼女のようなんですね。 真珠が所属する劇団は中国でも芝居を上演していて、まさにそこである事件が起こります。中国には人魚の涙は真珠に変わるという伝説があるので、谷崎は登場人物に意図的にその名を選んだと考えるのが自然でしょう。 しかし実際のところ、小説は前篇で終わってしまい、やや推理小説めいた謎が発覚したものの、その解き明かしを含めて結末は藪の中なのです。ヒントとなるのは冒頭に出てくる岑参の「送張子尉南海」という詩。    不択南州尉  南州の尉を選ばざるは    高堂有老親  高堂に老親あればなり    楼台重蜃気  楼台に蜃気を重ね    邑里雑鮫人  邑里に鮫人を雑う    海暗三山雨  海は暗し三山の雨    花明五嶺春  花は明るし五嶺の春    此郷多宝玉  此の郷に宝玉多ければ    慎勿厭清貧  慎みて清貧を厭うなかれ この詩は老親を養うために、南州の尉なんて地位を選んだ人へのアドバイスなんですね。そこは蜃気楼が見えたり、人魚に出くわしたりするところで、雨が降ると山が煙るほど鬱陶しいけど春は花が咲き乱れて君も慰められるだろう。この郷には宝(真珠のこと、南海は中国でも屈指の真珠の産地)も多いから、惑わされずに慎ましく生きなはれ、みたいなニュアンス。 この小説では真珠は老親と生き別れたことになっていて、谷崎に構想があったのか、それともそれが破綻したから結末に至らなかったのか、調べてみようという好奇心が沸き立ってこないのが難点です。当時の浅草の風俗の活写以外にはあまり魅力を感じない・・・なんでかなぁ・・・ちなみに中野美代子がこの作品に触発されて同名小説を発表、同様に「送張子尉南海」の詩を冒頭に掲げているらしいのですが、そちらは未読。谷崎関連ではこれより先に書かれた『人魚の嘆き』もやっぱり未読。 うーん、未完のせいか読む側も消化不良になっちゃうのかもしれないですね。それと評伝を書くひとは、案外出典となる作品を読んでいないようです。まあ、そのあたりは自戒をこめて。

Posted byブクログ