ラカン の商品レビュー
地元の図書館で読む。現代思想の冒険者の1冊です。このシリーズは悪くないです。哲学者の名前は、意外に知っています。この哲学者の名前も知っています。ただし、何をやっている人なのか知りません。著者は、精神科医です。非常に読みやすい文章です。いつも思うことですが、精神医学と哲学の接近に興...
地元の図書館で読む。現代思想の冒険者の1冊です。このシリーズは悪くないです。哲学者の名前は、意外に知っています。この哲学者の名前も知っています。ただし、何をやっている人なのか知りません。著者は、精神科医です。非常に読みやすい文章です。いつも思うことですが、精神医学と哲学の接近に興味を持ちます。それ自体ではありません。何故、精神医学と哲学は近い存在にあるのでしょう。精神医学は精神医学、哲学は哲学ではないのでしょうか。ここら辺が理解不能なのです。ある女性に聞いたとき、何の解答もありませんでした。中身については、この本よりも、別の本がいいような気がします。個人的には、とんでも本のような気がします。もちろん、そう感じるだけで、何の根拠もありません。しかし、この手の本を読んでみるのも面白いかもしれません。特に、ジェンダー論に興味を持ちました。ここら辺の本を集中的に読んでみるのもいいかもしれません。
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「学術書だけど物語」 エディプスコンプレックスとかあるからオイデプスの物語とかはいろんな人が引用することはあるけど、この人のはうまい!古今東西の文学作品を多様に使っていてわかりやすい。カミュとか、カミュは出てこないか、カフカが出てきた!「審判」! ラカンは言葉だけだとちょっと...
「学術書だけど物語」 エディプスコンプレックスとかあるからオイデプスの物語とかはいろんな人が引用することはあるけど、この人のはうまい!古今東西の文学作品を多様に使っていてわかりやすい。カミュとか、カミュは出てこないか、カフカが出てきた!「審判」! ラカンは言葉だけだとちょっと苦手かも。 でもフロイトとユングよりまとまってる気がする。そう!この作者は良い!ラカンの言いたいことは言葉だけとか理論だけとかで説明じゃなくて、物語なんだよねってわかってる!
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[13.0702]"シェーマL"について理解するのに10分以上かかる。なるほど、これは理科の人の反感を買う。しかし、このアナロジーの明晰性は、面白い。文章で書くだけなら何のこともない内容なのに、この図は、スノビーにうつるのはよくわかる。しかし、言語とて、(ウィ...
[13.0702]"シェーマL"について理解するのに10分以上かかる。なるほど、これは理科の人の反感を買う。しかし、このアナロジーの明晰性は、面白い。文章で書くだけなら何のこともない内容なのに、この図は、スノビーにうつるのはよくわかる。しかし、言語とて、(ウィト的なものいいなら)、単なるアナロジーの関係にすぎぬ。”言語”という前提を取り払った状態の認識について語るにとき、言語は適さないのかもしれない。 [13.0629]しかしまだるっこしい文章である [13.0626]1/4ほど読了。講談社新書のよりずっと明快だ。◎。しかし、もっと平易に、別の術語を使えるところを、フロイト用語の無理な拡張と、ズレたアナロジーでしか説明しないのは似た者同士か・・・ まあ、言いたいこと・話わかるが、明らかに無用の術語の濫用に、何の意味があるというのか。
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ラカンの思想を平明に解き明かしており、概要を理解するのに役立った。とはいえ、なんといっても難解さで知られるラカンなので、先に進むほど思想の構図が錯綜してきて、多少うんざりしてしまった。 ラカンは、主体の根底には欠如が宿っていることをくり返し説いている。よく知られた「鏡像段階」は...
ラカンの思想を平明に解き明かしており、概要を理解するのに役立った。とはいえ、なんといっても難解さで知られるラカンなので、先に進むほど思想の構図が錯綜してきて、多少うんざりしてしまった。 ラカンは、主体の根底には欠如が宿っていることをくり返し説いている。よく知られた「鏡像段階」は、主体が主体となる形成過程の中で、みずからの統一的な全体像を鏡像の内に見いだし、それと同一化することが要請される場面を意味している。だが鏡像は偽りの自己像でしかなく、以後主体は自己像との間の絶えまない葛藤を抱え込むことになる。 ところで、鏡像に魅せられる幼児は、じつはその背後にいる大人たちの視線によって、みずからの存在への欲望を教えられることで、鏡像を手がかりとする主体の確立へと導かれてゆくことになる。つまり、主体の中心部には構造的にみずからを他者へと明け渡す仕組みがはじめから実装されていたのである。このために幼児は、まずは鏡像を自己の欲望として迎え入れることで成立するナルシシズムの世界としての「想像界」へと参入し、また、言語の織り成す「象徴界」において、みずからを能動の主体として創出することになる。だがそうすることで、幼児はみずからの中心を他者へと明け渡す「去勢」を受け入れてしまうことになる。 主体は、それが成立した時点ですでに自己の中心を喪失していた。にも関わらず、主体は失われた自己自身への合一を回復して「現実界」へと出てゆこうとする。だがそれは、主体が自己の存在を、「母なるもの」というべき根源的な合一の中に解消してしまうことではないのか。じっさいフロイトは、それを死への衝動と呼んでいた。 ラカンはここで、フロイトとはべつの道を探ろうとする。著者は、こうしたラカンの歩みが、想像界・象徴界・現実界をつなぐ第四の環としての「サントーム」の概念に印されていることなどに触れている。そして、ジョイスが『フィネガンズ・ウェイク』で試みた書字の戯れの中に歓びを見いだすというスタイルの内に、主体がみずからの中心にある欠如にけっして到達することがないにも関わらず、逆説的に根源的な享楽が与えられる可能性をかいま見ようとしていたラカンの姿を描こうとしている。
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