省察 の商品レビュー
何が正しい情報なのか分かりづらい 時代、意外とデカルト的な視点は 必要かもしれない... 神の存在証明について、俗に言う あの " 神 " のことではなく、宇宙の 真理、もしくは絶対的な観念として 解釈すると現代でも通用する内容 だろう。実際、本文中でも宗教...
何が正しい情報なのか分かりづらい 時代、意外とデカルト的な視点は 必要かもしれない... 神の存在証明について、俗に言う あの " 神 " のことではなく、宇宙の 真理、もしくは絶対的な観念として 解釈すると現代でも通用する内容 だろう。実際、本文中でも宗教的 な意味合いで語られているわけでは ない。 デカルトと言えば「我思う故に...」 で有名だが、この一文はデカルト 哲学のスタート地点に過ぎない。 ゴールは神の存在証明だとして、 デカルトの凄さと面白さは二つの 地点の間に散りばめられた数学的 発想の方だ。 普通の人なら人生で一度も考えた こともない問題を提起し、それを 独自視点で乗り越えていく。やがて その精緻な認識論は受け継がれ、 後にフッサール現象学へと発展する。 神が登場した時点で、今では 荒唐無稽な宗教的古典哲学として 除外してしまう読者も多いのでは ないだろうか。だとしたらそれは 誤解であり、勿体ない選択だ。
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第三省察について。神の記載はキリスト教徒のデカルトだからこそ、実感があるのか。訳者である山田先生は「神」はキリスト教的ではないと解説されている。「神」とは考える自分に考えさせる者、システムなのか? 剣士でもあったデカルトならではの記載も多い。塚原卜伝の道歌「映るとも月も思はず映す...
第三省察について。神の記載はキリスト教徒のデカルトだからこそ、実感があるのか。訳者である山田先生は「神」はキリスト教的ではないと解説されている。「神」とは考える自分に考えさせる者、システムなのか? 剣士でもあったデカルトならではの記載も多い。塚原卜伝の道歌「映るとも月も思はず映すとも水も思はぬ広沢の池」や、不動智神妙録「心こそ心迷わす心なれ 心にこころ 心許すな」を思わせる。 「神」についての第五省察を読んで、デカルトの言う「神」が、読者の思う「神」と同じとは限らないと分かった。読者を自分たらしめるために存在する者を、「神」とするなら、理解できる。 第六省察では、行き過ぎた懐疑を現実に戻す。
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悪意のある老獪な霊 【もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。】 「そこで私は、真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己...
悪意のある老獪な霊 【もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。】 「そこで私は、真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形態、音、その他一切の外物は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何等の感官も有しないもので、ただ間違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。私は堅くこの省察に執着して踏み留まろう。そしてかようにして、もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、確かに次のことは私の力のうちにある。すなわち私は断乎として、偽なるものに同意しないように、またいかに有力で、いかに老獪であろうとも、この欺瞞者が何も私に押しつけ得ないように、用心するであろう。」
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ソシュールの言語学やメルロ=ポンティの理解を深めるため、近代哲学から学び直すという名目で読みました。結果良かったです。 特に第三省察の神の存在証明で使われた、観念の二義性である「表象的実在性/形相的実在性」は特に面白かったです。(この概念に詳細な言及はなされていなかったので、榮福...
ソシュールの言語学やメルロ=ポンティの理解を深めるため、近代哲学から学び直すという名目で読みました。結果良かったです。 特に第三省察の神の存在証明で使われた、観念の二義性である「表象的実在性/形相的実在性」は特に面白かったです。(この概念に詳細な言及はなされていなかったので、榮福真穂さんの口頭発表の文書を参考にしながら読みました。) 観念の「表象対象に依存した/表象対象とは無関係な」在り方、さらに観念の「多様性/画一性」というコインの裏表のような認識論ですが、これを批判的に発展させたものがソシュールの言語学や構造主義の哲学だと思いました。 デカルト哲学に通底している「精神と世界との接続」「知の確実性の獲得」という2つの根本的な動機において、この観念の二義性という概念は、重要な役割を担っていると思います。そしてそこから批判的に哲学や科学が発展していくと考えると、”近代哲学の祖”と呼ばれるのも納得できます。 古典ということもあり多少読みづらさはありましたが、プラトンの対話編のような文学性を感じることもでき、とても面白かったです。
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デカルトの思考方法がよくみえる でも、読んでてうんざりするタイプ 最終的に、方法序説でことたりる、もしくは、本書の解説がよくできてる スコラ的な世界から新たな世界を立ち上げたのがデカルトなので、その方法論はやはりスコラ的な世界に思える この一種のグダグダとも聞こえる論理の進め方と...
デカルトの思考方法がよくみえる でも、読んでてうんざりするタイプ 最終的に、方法序説でことたりる、もしくは、本書の解説がよくできてる スコラ的な世界から新たな世界を立ち上げたのがデカルトなので、その方法論はやはりスコラ的な世界に思える この一種のグダグダとも聞こえる論理の進め方とか おぉ、と思うところもいっぱいある 省察でなんとなく背景を読みつつ、序説くらいに整理したもので十分なんじゃないかな
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方法序説よりは少し長いが、それでも130ページ程度だし、方法序説より厳密に書かれているのでかえって読みやすい。とはいえ、難しいのは難しい。 物事の真偽をいったん全て留保し、そこから疑いえない自分自信の精神を見出し、そして、自らの内にない観念の原因として神の存在を証明する。そこまで...
方法序説よりは少し長いが、それでも130ページ程度だし、方法序説より厳密に書かれているのでかえって読みやすい。とはいえ、難しいのは難しい。 物事の真偽をいったん全て留保し、そこから疑いえない自分自信の精神を見出し、そして、自らの内にない観念の原因として神の存在を証明する。そこまではなんとかわからないなりにわかったんだけど、どのようにして物質的な実態を明晰に認識できるのかってところは正直ようわからんかった。 それから、デカルトが言及する神というのが、どうも非人格神ぽくて少し違和感があった。キリスト教(もう少し広くセム的一神教)は人格神が基本だけど、こういう非人格神的な取り扱いが当時のキリスト教社会の中でどう位置づけられてたのだろう。 哲学とか歴史とかの素養がないと、こういうの読むとき苦労するんだよな。
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『方法序説』を読んでもよく解らなかったところ、一番知りたかったところが、デカルトの言葉で読むことができる。神の存在証明の詳細。デカルトにとって神とは。やはりデカルト的循環といわれても仕方がない気がしないでもない。また、論の大半はスコラ学の世界のもののような印象を受けた。
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総索引や解題、極めて充実した注釈、新しい時代の翻訳文で、極めて難解ではあるものの、だいぶ読みやすく、わかりやすい訳でした。三木先生の訳文は、読み解くのがすごく難しかったですが、こちらは、だいぶとっつきやすいです。といっても、取り上げているテーマ(形而上学。精神と身体の関係と神の存...
総索引や解題、極めて充実した注釈、新しい時代の翻訳文で、極めて難解ではあるものの、だいぶ読みやすく、わかりやすい訳でした。三木先生の訳文は、読み解くのがすごく難しかったですが、こちらは、だいぶとっつきやすいです。といっても、取り上げているテーマ(形而上学。精神と身体の関係と神の存在)も、省察内容も難解なのですが。
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「方法序説」より格段わかりやすいと言われた意味がわかった。 原著はドイツ語だったから。それを知っていれば、こっちから読んだのに!と実に本を読むときには順番があると感じるこの頃(笑)
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
デカルト(山田弘明訳)『省察』ちくま学芸文庫,2006年 1642年出版。6つの省察からなる。第一省察はすべてのものについて疑いうることを示す。有名な「最高の力と狡知をもった霊が、あらゆる努力を傾注して私を欺こうとしている」という「悪霊」の想定がある。第二省察は物より心のほうがよく知られることを論ずる。蜜蝋の例がでてくる。蜜蝋は温度によって変化し、味覚・嗅覚・視覚・触覚・聴覚のもとに感じられたものはみな変化する。第三省察は、私が考えているときは存在し、無ではないし、無にはできないことが指摘され、私には完全性の観念があることから、これは神から与えられなければありえないので、神は存在するとされる。表象的実在性とか形相的実在性とかの概念がやっかい。観念とは映像のごときものだという言い方もある。第四省察は人には知性と意志があり、知性は神が与えたものなので、これに従うかぎり誤らないが、自由意志を不正利用して知りもしないものに同意を与えると誤ってしまう。しかし、神が意志を与えたのは良き意図からだし、意志は不可分だから、神は誤謬の原因ではないことが指摘される。第五省察はすべての知識の確実性は神の存在に依存することが指摘されている。第六省察は精神は考えるもの、体は空間(延長)をもつものとして区分されることを述べる。 デカルトの『省察』は神の存在と魂の不滅を証明しているのであるが、これはマテオ・リッチが『天主実義』で証明するものと同じ対象である。リッチは中国人という本物の異教徒に説いたので、明快で分かりやすいが、デカルトはヨーロッパの知識人相手にやっているので、書き方が難しいし、よく分からんところがある。山田氏の訳注は細かくていい。とても敬服する努力であるが、関連するほかのテキストを注釈でつけるというのは、中国の古典学では「互注」という方法で珍しくないし、量が多くなるので、せいぜいノート程度である。これをまとめて、簡潔にシテ的確な注をつくってもらえたらと思う。
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