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倫理としてのナショナリズム の商品レビュー

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2020/04/13

ー われわれは、(1)市場、(2)国家、(3)社会共同体、の三つのレベルの重なりあいにおいて活動している。そのいずれが欠落しても社会はバランスを崩す。そしてそのことは、ここにもう一つ重要なファクターが存在することを示している。それは、目に見えない、あるいは意識することの少ない、ほ...

ー われわれは、(1)市場、(2)国家、(3)社会共同体、の三つのレベルの重なりあいにおいて活動している。そのいずれが欠落しても社会はバランスを崩す。そしてそのことは、ここにもう一つ重要なファクターが存在することを示している。それは、目に見えない、あるいは意識することの少ない、ほとんど無意識のうちにわれわれの行動の枠組みを規定しているものだ。ここではそれを、(4)潜在的な価値の体系、と呼んでおきたい。 というのも、「個人的利益」「公共的関心」「社会的信頼」の三者を結び付けるには、それらの間の序列や関連を生み出す価値の体系が不可欠だからである。これらの三者は具体的な場面の中では相互に対立しあう。とすれば、それを具体的な場面に応じて振り分け調整する基準が必要となる。それが、ここで言う「潜在的な価値の体系」だ。 日頃、われわれは決してものごとを意識的、合理的に捉え、もしくは綿密な計算を立てて行動しているわけではない。われわれは常にある種の無意識の価値に支えられ、また、それに服して行動している。例えば、日常的な言語活動、つまり会話そのものが、ほとんどそれとは意識しない価値を負荷したものである。 ー グローバリズムもナショナリズムもともに危機的状況である今こそ、我々は倫理への問いかけを行わなければならない。 ふむふむ。 15年前の作品なのに、未だにこれを乗り越えられていない驚き。 グローバリズムは洗練されないし、ナショナリズムはより偏狭になっている。

Posted byブクログ