触発する言葉 の商品レビュー
メモ。 オースティンの言語行為論の読解が中心。 ヘイトスピーチに関する記述。 習慣と文化政治に関する議論に接続可能。
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人間は物語を生きる動物である。社会は物語を必要とする。歴史は物語そのものだ。我々はルール、道徳、感情、理性、知性を物語から学ぶ。というよりは物語からしか学ぶことができない。こうして人間は「語られるべき存在」となった。続いて書字が記録という文化を生む。人間は「歴史的(時間的)存在」...
人間は物語を生きる動物である。社会は物語を必要とする。歴史は物語そのものだ。我々はルール、道徳、感情、理性、知性を物語から学ぶ。というよりは物語からしか学ぶことができない。こうして人間は「語られるべき存在」となった。続いて書字が記録という文化を生む。人間は「歴史的(時間的)存在」と化した。 http://sessendo.blogspot.jp/2014/02/blog-post_4.html
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
表現規制と発話行為をめぐって。賛成・反対の立場だけでは単純に回収しきれない示唆がある。 バトラーの議論がおもしろいとおもうのは、発話をその発話者と行為遂行性の問題だけに収めないところ。言葉に「傷つけられる」とはどういうことか。発話主体に先行して存在する、言葉の効果を産み出している社会や政治的文脈に言及している。 発話そのものを規制するのではなく、中傷性という発語媒介効果を再演せずに言葉そのもの文脈を書き換えていくべきという提案自体はなるほどと思う。
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2009年前期EHゼミのテクストのひとつ。ヘイトスピーチについて扱っている。法による処罰にバトラーは反対の立場。実際「放送禁止用語」みたいのが出来るだけだと、それについて話されることがなくなり、ただその単語を使わないだけで、別の言葉で差別的言説は流通し続けるわけだが。相変わらずご...
2009年前期EHゼミのテクストのひとつ。ヘイトスピーチについて扱っている。法による処罰にバトラーは反対の立場。実際「放送禁止用語」みたいのが出来るだけだと、それについて話されることがなくなり、ただその単語を使わないだけで、別の言葉で差別的言説は流通し続けるわけだが。相変わらずごちゃごちゃと難しくて(^^;)困る。
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珍しく新刊で買った本。最近はあせって読まなきゃいけない本などないので,必要な本も古書店に登場するのを待ってから購入することがほとんど。 そんななか,急を要して読むことになりました。今,私が2004年に書いた論文に対して,2人の若き地理学者による批判論文が投稿されています。それに反...
珍しく新刊で買った本。最近はあせって読まなきゃいけない本などないので,必要な本も古書店に登場するのを待ってから購入することがほとんど。 そんななか,急を要して読むことになりました。今,私が2004年に書いた論文に対して,2人の若き地理学者による批判論文が投稿されています。それに反論論文を書かなくてはならないのです。そのテーマに欠かせない本だったというわけです。 ジュディス・バトラーはフェミニズム研究の第一人者。1990年の主著『ジェンダー・トラブル』が1999年に翻訳されてから,いくつかの本が翻訳されるようになり,雑誌『現代思想』でも特集が組まれています。フェミニズムにもいろいろありますが,バトラーはスマートな正統派の哲学的議論からジェンダー・アイデンティティにアプローチしていて,社会学的でもあります。著名なフェミニズム論者を他に挙げれば,まずはガヤトリ・スピヴァックで,彼女はデリダの翻訳もしているように,非常に難解な脱構築的思考と,自らのアジア的アイデンティティの政治的立場をポスト植民地主義が特徴。もう一人はダナ・ハラウェイで生物学者。身体的な性別の複雑さから男女の問題にアプローチする。しかも,SF小説の解読でも有名で,そこから近年の,そして未来の身体がサイボーグ化していると宣言する。 私の理解では,バトラーは19世紀ドイツの哲学者ニーチェの影響が大きいと思う。といっても,私は『善悪の彼岸』しか読んだことがないのだが,ニーチェの有名な主張に「多くの言語に共通する,主語+述語という文法のが,述語=動詞=行為に主語=主体が先行することを前提としている」というものがあります。わたしたちは行為を行うのは必ず人間主体だと考えますが,それは普遍的な真実ではなく,わたしたちが用いている言葉の文法という規則によってそう考えるように教育されている,という議論ですね。 本書『触発する言葉』は,特に言語に議論を集中したもの。言葉は時にとても大きな力を持ちえるが,「たかが言葉」とか「口約束」とか,軽んじられることも少なくない。特に,確実な存在を示す物質的なものとか,人間が自らの身体を用いて行う行為や行動というものに比べて,あやふやで,曖昧模糊として捉えられがちだ。場合によっては,言葉というものは現実や事実を不完全に報告するに過ぎない,常に現実や事実に遅れて登場するものであると。 そんな言語観に異議を申し立てた哲学者・言語学者がJ.L.オースティン。彼の『言語と行為(原題は「言葉によっていかに事を為すか」)』という講義録が発行されたのが1962年。それ以降,J.R.サールの『言語行為論』(1969年)をはじめとして,言語を行為の一部と見做す議論が多く見られるようになります。 その最近版が1997年に発表された本書『触発する言葉』です。彼女によれば,言語を行為と結びつける考え方は半世紀の間に浸透し,律法にも大きく影響しているといいます。言葉というものを,それを発した主体に原因を帰すると同時に,それは単なる言葉ではなく,行為と同等の責任を有するものであるということです。例えば,実際に男性が女性の身体に触れることだけがセクシャル・ハラスメントではなく,卑猥な言葉などを発することも法に触れる行為と見做される,ということです。 しかし,ニーチェ哲学的立場に立つバトラーにとっては,発言を行為と見做すことは部分的に正しいとしても,それは述語に主語が先行するという文法的思考からくるものであり,必ずしも哲学的な真実ではないとみなします。あくまでも特定の主体によって発せられた言葉は「繰り返し」によって,意味をなし,それによって他人を傷つけるわけです。この「繰り返し」というのが重要であって,繰り返すということはその言葉は完全にその発した人物のオリジナルではなく,過去に別の他人が発したものであるわけです。 といっても,発言の内容はそれを発した主体に責任はない,と考えるのはあまりにも無謀です。要するに,人を傷つけるように発せられた言葉に対する責任はその発した人物一人に帰すことができるような単純な問題ではなく,その言葉が人を傷つけるというルールを作り出した社会全体の問題と理解され,それによってあるひとが傷ついたという問題は解決のためには非常に複雑な状況を明らかにする必要があるということです。 相変わらず,あまりうまく説明できていないので,この辺でおしまいにしておきましょう。
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