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意志と表象としての世界(2) の商品レビュー

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7件のお客様レビュー

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2021/05/21

ショーペンハウアー「 意志と表象としての世界 」 3巻 天才論と芸術論から 新しい世界秩序を展開。全体像が少し見えてくる。2巻の意志の世界を、生に盲目的であり、自由の代償として孤独を感じる苦悩の世界としている。 イデアは 本質、普遍的な真理、不変の原型、意志が適切に客観化...

ショーペンハウアー「 意志と表象としての世界 」 3巻 天才論と芸術論から 新しい世界秩序を展開。全体像が少し見えてくる。2巻の意志の世界を、生に盲目的であり、自由の代償として孤独を感じる苦悩の世界としている。 イデアは 本質、普遍的な真理、不変の原型、意志が適切に客観化されたもの イデアは いっさいの現象(表象)の普遍的な形式(客観は主観に対応した存在)をまもっている〜イデアのみが意志(物自体)の適切な客体性といえる 純粋な認識主観はイデアを認識しているだけ 著者の伝えたいことは「目前に存在するのは、自分自身でなく 客観のみであるという幻覚を作り出せれば、あらゆる苦悩から免れることができる〜意志としての世界は消え失せ、残るのは 表象としての世界である」 そのためには、芸術や天才から 純粋な認識主観を捉え、世界の本質を観照せよ、という論調。崇高感から純粋主観を説明した文章から想像するに、純粋主観は 宗教的解脱に近いものに感じた 天才は 根拠の原理に従わず、事物のイデアを認識し、自分を個体として意識するのでなく、意志を持たない純粋な認識主観として自分を意識できる 普通の人間〜自然が毎日作り出す工場製品のごとき人間 生への意志を肯定し、自己利益を至上原理とする普通人は 世界を観照することはない 意志を持たない純粋な認識主観、プラトンのイデアの認識。美の認識を可能にする主観と客観の関係〜ショーペンハウアーの芸術論の基礎 芸術は時間の歯車を止める〜ただ本質的なもの、イデアのみが芸術の客観である 天才的な認識(イデアの認識)は 根拠の原理に従わない認識のことである〜イデアは直観的な認識の領域にある〜理性的な認識とは対立 天才は狂気に近似している 天才は根拠の原理に従った相互関係の認識を見捨てて、事物の中にイデアだけを見る 芸術家〜人間の美しさを描き出し、その描写において自然を凌ぐほど 芸術家は生への意志に奉仕しない、想像力と理性により自然がじつげんしたことないイデアを先取りし表現できる 人間の本質を顕わにすることが芸術の最高目的 人間の美とは、意志の認識可能性の最高段階における意志の完全な客観化である あらゆる芸術家はイデアを描き出す点で目的を一にしている〜本質的な違いは、描き出すイデアが意志の客観化のいかなる段階かという点 人間は意欲の激しい、暗い衝動である〜人間は同時に、純粋認識の永遠な、自由な、晴朗な主観である 崇高な性格 自身の人生航路とそこで出会う災難を、自分の個人的な運命と見るより人類一般の運命と見て、悩むというより認識するという態度 哲学とは、普遍的な概念を用いて世界の本質を完全に再現し、言明すること。哲学は意志の要求に応じて世界秩序を構築するものでなく、意志を肯定する世界の本質(イデア)を概念により表現すること。哲学は科学より芸術に近い 4巻の基本命題「表象としての世界において意志の前に意志を映す鏡が現れ、鏡に照らして意志は己れ自身を認識する」 *再び意欲の動機となって意志の肯定の永劫回帰が確立する道 *意欲の鎮静剤になって意志が消滅する道 ショーペンハウアーの死生観 意志の現象の形式〜は現在だけであって、未来でも過去でもない〜現在といい、内容といい 動揺することなしに存立しているが、それはあたかも滝にかかる虹のよう 意志の現象が完全になるにつれ、苦悩もあらわになる 生への意志の肯定が強まり、他者の意志に対する侵害(苦しみ)も増加する いっさいの生は苦悩であることが本質的であることは、苦しむ動物の世界を見れば得心する

Posted byブクログ

2020/07/15

ドイツの哲学者 アルトゥル・ショーペンハウアーの代表的な著作。哲学に興味を持つと一度は通る道ではないでしょうか。本巻は第三巻「表象としての世界の第二考察」と第四巻「意志としての世界の第二考察」の一部が収録されています。第三巻では芸術論が展開します。表象において範型として表現された...

ドイツの哲学者 アルトゥル・ショーペンハウアーの代表的な著作。哲学に興味を持つと一度は通る道ではないでしょうか。本巻は第三巻「表象としての世界の第二考察」と第四巻「意志としての世界の第二考察」の一部が収録されています。第三巻では芸術論が展開します。表象において範型として表現された意志として定義されるイデアを認識するための芸術という、ショーペンハウアー特有の考えが凝縮しています。あらゆる分野のものを語りつくしています。第4巻では意思について論じられます。第一巻、第二巻よりも読みやすいです。

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2020/01/06

「意志と表象としての世界」第3巻と第4巻の一部を掲載したのが本書。ショーペンハウアーの芸術論(第3巻)と世界観(第4巻の一部)で構成されている。 芸術論はイデアの世界観と芸術の世界観をテーマにペシミストたるショーペンハウアーが垣間見せるポジティブな世界観。音楽を最高の芸術と称して...

「意志と表象としての世界」第3巻と第4巻の一部を掲載したのが本書。ショーペンハウアーの芸術論(第3巻)と世界観(第4巻の一部)で構成されている。 芸術論はイデアの世界観と芸術の世界観をテーマにペシミストたるショーペンハウアーが垣間見せるポジティブな世界観。音楽を最高の芸術と称して芸術はイデアの世界を認識させてくれるという。 そしてこの意志というものは万物を動かすエネルギーみたいなもので、盲目なるエネルギー。こうやって考えるとドーキンスの「盲目の時計職人」を想像させる論理で、人間が制御できないエネルギーだからこそ人間の生は苦悩という次巻の結論につながっていく。

Posted byブクログ

2019/07/02

 本書はショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界(正編)』の第三巻に相当する(第四巻の一部も含まれる)。「表象としての世界の第二考察」は芸術論であり、ショーペンハウアー哲学の最も個性的な側面といえよう。  世界は私の表象に過ぎず、その表象を認識させている知性は意志の奴隷に...

 本書はショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界(正編)』の第三巻に相当する(第四巻の一部も含まれる)。「表象としての世界の第二考察」は芸術論であり、ショーペンハウアー哲学の最も個性的な側面といえよう。  世界は私の表象に過ぎず、その表象を認識させている知性は意志の奴隷に過ぎない。しかしこの知性が異常に発達した人間、すなわち天才においては、例外的に知性が意志の支配から脱却することがある。そのとき知性は世界を客観的に映す明澄な鏡となる。かかる過程を経て生産されたものが芸術作品であり、天才の業である。  ショーペンハウアーの芸術至上主義が遺憾なく発揮されている本書では、空間のみを形式とした建築、時間のみを形式とした音楽、その他ありとあらゆる芸術(彫刻、絵画、詩、等々)が俎上に載せられる。だがショーペンハウアーが最も高く評価するのは音楽である。音楽こそは、時間以外のあらゆる狭窄物を取り去った、生のままの意志に最も近い芸術様式であるという。 「意志」から解放された客観的な世界の認識にショーペンハウアーが肯定的な価値を付与するのは、やはりそこにプラトン的なイデアの把握を見て取っているためであろう。「意味」を剥奪された「物自体」の認識については、例えば漱石が「発狂」「自殺」「宗教」の三つの可能性しか認めなかったり、あるいはサルトルが『嘔吐』を書いたりといったように、むしろ否定的な解釈が多いことを考え合わせると興味深い。  ショーペンハウアー哲学がアカデミズムの世界よりもワーグナーやトルストイ、トーマス・マンなどといった芸術家たちによって高く評価されたのも、この芸術論があってこそであろう。第一巻・第二巻とは隔絶した明朗な哲学世界に、読者は魅了されるに違いない。

Posted byブクログ

2014/03/01
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※このレビューにはネタバレを含みます

謙虚というものは、卑劣な嫉妬に満ち満ちたこの世の中で、長所や功績をもっているものがそれを持たない者に赦しを乞い求めようとするときの手段として用いる卑下の装い以外の何であろうか。

Posted byブクログ

2012/07/10

課題で使っただけなので詩の章と音楽の章しか読んでません笑 ほかはパラパラと見ただけです。 でも面白かったです。

Posted byブクログ

2012/04/24
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

ショーペンハウアーが多くの芸術家から支持されたのは当然とも言える。 なぜなら、ショーペンハウアーが登場する以前の時代から、もしかしたらペシミズム(厭世観)という言葉が登場する以前から、絵画、音楽、詩など様々な形で、芸術家たちはこの世が苦しみや悲しみで満ちていることを描くことを試みてきたのだから。 そして、さまざま芸術の中にイデアを見出し、伝達しようとする試みも、芸術の作り手たちが考えてきたことだからこそ、共感を得たのではないかと思う。 悲劇が、人物の特性を遺憾なく発揮し、人間の心情の深さを開示するという点で、詩芸術の最高峰というのはまさに言い得たことだろう。人間の本質は楽なとき、喜びに満ちているときより、苦しみ悲しむときこそ現れるものだから。 しかし、死が排泄物と同じとは。排泄物を悲しむことがないように、死の場合にしても恐れおののく理由はなにもないということなのだけど。さすがにこれについては他の表現をして欲しかった。 ショーペンハウアーは芸術論において人間の「生」について語り、その対極である「死」についても語る。 死に対する考えや行動を美化するのでもなく、卑下するのでもなく、あまりにも率直にその姿を描いている。 苦しいからといって自殺しても得るものはない。 常に死の恐怖に触れているわけではない。 死を自分の意識の中に入れようとしない。 うつ病や自殺を考えている人などに、ショーペンハウアーを読ませるなというのは、かえって路頭に迷わせるように思える。 むしろショーペンハウアーやウィトゲンシュタインを読ませ、生きること、悩むこと、そして死とはなにかを自分で考える時間と力を与えるべきではないだろうか。

Posted byブクログ