星条旗の聞こえない部屋 の商品レビュー
中上健次や村上龍の初期の青春小説の逸品たちにも似た「みずみずしい世界への違和感・怒り」を感じる。どのように働きかけてもあらかじめユダヤ人(つまりは「ガイジン」)とみなされるその一方的な偏見・眼差しの暴力性に戸惑い、そしていったい自分は何者なのか・なぜここにいるのかを不断に問い詰め...
中上健次や村上龍の初期の青春小説の逸品たちにも似た「みずみずしい世界への違和感・怒り」を感じる。どのように働きかけてもあらかじめユダヤ人(つまりは「ガイジン」)とみなされるその一方的な偏見・眼差しの暴力性に戸惑い、そしていったい自分は何者なのか・なぜここにいるのかを不断に問い詰められている気にさせられるという果てしない心理的重圧が伝わってくるのだ。実を言うと(こんな読みは我田引水そのものだが)ぼく自身発達障害者として、そんなどこにも居場所を持てない違和感に心が乱されることがある。ゆえにこの作品に共感を抱く
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文学作品をまともに読むなんて、相当久しぶりでした。 先輩に誘われて参加している読書会という名の飲み会で、課題図書になっていたのに、会には間に合わず。そんで、ようやく読み終えました。 アメリカ人が日本語で書いた小説ということで話題になったそうです。 日本人でも使わないような語彙も繰...
文学作品をまともに読むなんて、相当久しぶりでした。 先輩に誘われて参加している読書会という名の飲み会で、課題図書になっていたのに、会には間に合わず。そんで、ようやく読み終えました。 アメリカ人が日本語で書いた小説ということで話題になったそうです。 日本人でも使わないような語彙も繰り出していて、日本文学が「開国」を迫られた、みたいな。 しかし、ことはそう単純ではないようで、主人公=作者はアジアでの生活が長いユダヤ系アメリカ人だと。日本人の血は入っていないけど、生粋?のヤンキーでもない。 こういうのを「ディアスポラ」とかいうんでしたかね? とにかく、どこに行っても居場所がない感じに溢れた小説です。
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日本人の血を一滴も持たない作者、リービ英雄が母語を離れ日本語で書いた小説。(リービ英雄は「万葉集」を英訳したことでも有名。)しかも「あとがき」によると、スタンフォード大学にいる時に書いたものだそう。 日本語以外を母語とする作家によって書かれた日本語の小説といえば、近年では第1...
日本人の血を一滴も持たない作者、リービ英雄が母語を離れ日本語で書いた小説。(リービ英雄は「万葉集」を英訳したことでも有名。)しかも「あとがき」によると、スタンフォード大学にいる時に書いたものだそう。 日本語以外を母語とする作家によって書かれた日本語の小説といえば、近年では第139回芥川賞を受賞した楊逸なんかが思い起こされる。その時に、私はいくらかの驚きと違和感をもってその事実をうけとめた気がする。こうした違和感は、私が(自身の読書経験を通して)無意識のうちに、「日本の小説は日本語を母語とする作家によって書かれるもの」という先入観を抱いていたという事実を暴露するものであった。 母語以外で小説が書かれることもあるという事実を私はそれまで知らなかったわけではない。カフカやコンラッドなど、そうした例を4、5人簡単に列挙することが私にはできる。だが、私はそうした先例を知りながらも、自分の母語である日本語においても同様のことがおこりえることに随分と無自覚だったのだ。 ところで、楊逸はごくごく最近のことだが、リービ英雄の『星条旗の聞こえない部屋』が「群像」に発表されたのは1987年3月、今からちょうど23年前のことで、しかもこの1987年3月とは私がこの世に生を受けた時である。23年前にも私のような奇妙な違和感を抱いた人物はいくらか存在したであろうし、そうした衝撃はきっと私が感じたもの以上に激しいものだっただろう。当時の文学界の雰囲気をこの身で感じとることは不可能だが、「異形」のものとして受け取られたであろうことはなんとなく察しがつく。 さて、最後にこの本を読み終えた後の感想を簡単に。この本を読んでいて私はソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』を想起した。「日本」というよく知る自分の母国の話を観て(読んで)いるにも関わらず、異国人の視点を通すことで、そうした自分のよく知る国のことが恐ろしく奇妙なものに感じられるという体験を、両者において同じように経験したというのがその理由。 是非、この本とあわせて、ソフィア・コッポラ監督の上記の映画も観ていただきたい。 ちなみに本書は野間文芸新人賞を受賞している。 いつものことながら、要領を得ないブックレビューでした。
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言語を獲得するというのがどういう事であるのか、日本語の話者であるというのがどんなに幸せな事なのかを知らしめられるような感じ。 この本を読むたびに、切実さを持って日本語を使おうと思う。(そして、切実さを持って他言語を獲得しようとも思うけれど、それは中々実現していない。)
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アメリカで生まれ英語を母語としながらも日本語で創作を続ける著者の、私小説的作品。 在日米国大使館領事の息子、主人公のベン・アイザックが気づまりな父との関係から逃れ、 日本社会、日本語社会に「越境」を試みるという話。 「ガイコクジン」であるベンが日本社会に入るためにぶつかる、様々な...
アメリカで生まれ英語を母語としながらも日本語で創作を続ける著者の、私小説的作品。 在日米国大使館領事の息子、主人公のベン・アイザックが気づまりな父との関係から逃れ、 日本社会、日本語社会に「越境」を試みるという話。 「ガイコクジン」であるベンが日本社会に入るためにぶつかる、様々な壁が描かれているのはもちろん、 彼の違和感は、同じく「ガイコクジン」である父や、日本に来ている同年代の留学生に対しても向けられる。 そしてもちろん、自分自身にも。 つまりこれは「ガイコクジンの物語」では無く、究極の個人の物語、「内面の越境」の物語で、普遍性を持ったものだと思う。 ちなみに、リービ英雄はユダヤ系の父と、ポーランド系の母を持つ。 (いままで「ヒデオ」という名前から、日系人だと勝手に思い込んでいました…) 彼のように日本語以外を母語としながらも日本語で書いている作家には、 デビット・ソペディ、毛丹青、シリン・ネザマフィ、楊逸などがいるので、要チェックかな~
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"帰る場所のない"ベン・アイザックが、"あめりか"を抜け出し、日本語の飛び交う東京へと、そして「しんじゅく」へと迷い込む物語。日本語を母語としない作家による、初の日本文学である。 ぐいぐい引き込まれるのはなぜだろうと考えると、まるで自分が...
"帰る場所のない"ベン・アイザックが、"あめりか"を抜け出し、日本語の飛び交う東京へと、そして「しんじゅく」へと迷い込む物語。日本語を母語としない作家による、初の日本文学である。 ぐいぐい引き込まれるのはなぜだろうと考えると、まるで自分が幽体離脱――ニホン語の空間を、ガイコク人の体から覗く――しているように感じたからだった。 どれだけニホン人の側に立っても、どれだけニホン人と同じ行動をとっても、どれだけニホン語を使っても、決して入れない「ニホン」という空間。「イングリッシュ・コンバセーション・クラブ」の大学生たちは、ベンに向かって英語で話し、決して日本語という殻を割らない。 それに対し、突如現れた安藤はこう言う。「日本に来て、どうして英語で喋べっておるんですか」。こう言う安藤に惹かれるように、ベンは"ニホン"に憧れ、のめりこんでゆく。 ここでえぐられるのは、いかにニホン人が"ニホン"を所有して手放さないかということ。 どうして「ガイコク人」には「ガイコク語」を使って話さなきゃならないと思っているのか。どうして「ガイコク人」が「ニホン語」を喋ると、その内実よりも上手い下手に心が行くのか。 ふだんは気づかないが、この両者はどちらもガイコク人には違和感のあることで、これは自分と相手の立場を置き換えてみれば良く分かる。 それと同時に、"ニホン語"という、ナショナル・アイデンティティの核の部分(とくに国家=民族=言語という等式がほとんどきれいに成立するゆえか)には決して触れられたくないという、ニホン人の日本/日本語に対する所有権の主張さえ感じるのである。 安藤の手助けを借りながら、少しずつベンは「しんじゅく」へ足を踏み入れていく。その時々で、自らのナショナル・アイデンティティの不在を語り、「どうしてニホンなのか」を、直接には語らない形で徐々に明かしていく。 しかし、結局ベンは"ニホン人"にはなれない。ラストに「生卵を飲む」というシーンがあるのだが(ゼミで聞いたところ、生卵を食べるのはアメリカなどではあまり一般的ではないとか)、このような「日本人になるための儀式」を象徴した行為を経てさえも、彼は決して日本人にはなりきれないのである。 自分としては、なかなか衝撃的な一冊であった。 ひとつは、先述したように「日本語の所有権」という気づかなかった事実を突き付けられたから。もうひとつは、外から見た日本とはこうなのか、という越境を感じられたからであろう。 一読した程度だが、まだまだいろいろな謎が残っている。 たとえば、どうして日本でも東京でもなく「しんじゅく」なのか(「日本語」の問題は執拗に描かれるが、「日本」という空間を意識的に描いているとはあまり思われなかった)、どうして「星条旗の『聞こえない』部屋」なのか(『見えない』ではなく?星条旗のはためく音でもなく、英語でも中国語でもなく、「星条旗の聞こえない部屋」=「日本語の聞こえる部屋(=安藤の部屋)」ということなのだろうか?)。 これらの謎は、時間を置いて何度も味わううちに分かってくるのだろうか。ベンが"ニホン"という空間に入り込んできたように、わたしがベンの空間に侵入していくうちに。
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マイノリティの物語。そして、マジョリティとマイノリティそのものの物語。 おりちゃった、みんなといっしょにおりちゃった。 この一文はまるっきり初体験の告白だ。なんとも色っぽくて、赤面するような気持ちになった。
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作者リービ英雄が自分を重ねて描いていると思われる17歳の主人公ベン・アイザックが、自分を囲う領事館の壁を越え、言葉の所有権を手放そうとしない「日本人」の壁を越えて、「しんじゅく」の街で日本語を獲得していく経験を、生き生きと、かつ細やかに綴った爽やかな印象の一冊。そのような経験をし...
作者リービ英雄が自分を重ねて描いていると思われる17歳の主人公ベン・アイザックが、自分を囲う領事館の壁を越え、言葉の所有権を手放そうとしない「日本人」の壁を越えて、「しんじゅく」の街で日本語を獲得していく経験を、生き生きと、かつ細やかに綴った爽やかな印象の一冊。そのような経験をしてこそ、もう一つの言葉を手に入れることができるのだろう。それと対照的に、一つの言葉のなかに閉じ籠もる日本人の姿も興味深いが、吉本隆明を読んでいると思われる「ますむら」の描写がもう少し掘り下げられていれば、いっそう面白かったろう。今は失なわれた新宿の姿もここにはある。
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日本人の血を一滴も持たない作者、リービ英雄が母語を離れ日本語で書いた小説。(リービ英雄は「万葉集」を英訳したことでも有名。)しかも「あとがき」によると、スタンフォード大学にいる時に書いたものだそう。 日本語以外を母語とする作家によって書かれた日本語の小説といえば、近年では第1...
日本人の血を一滴も持たない作者、リービ英雄が母語を離れ日本語で書いた小説。(リービ英雄は「万葉集」を英訳したことでも有名。)しかも「あとがき」によると、スタンフォード大学にいる時に書いたものだそう。 日本語以外を母語とする作家によって書かれた日本語の小説といえば、近年では第139回芥川賞を受賞した楊逸なんかが思い起こされる。その時に、私はいくらかの驚きと違和感をもってその事実をうけとめた気がする。こうした違和感は、私が(自身の読書経験を通して)無意識のうちに、「日本の小説は日本語を母語とする作家によって書かれるもの」という先入観を抱いていたという事実を暴露するものであった。 母語以外で小説が書かれることもあるという事実を私はそれまで知らなかったわけではない。カフカやコンラッドなど、そうした例を4、5人簡単に列挙することが私にはできる。だが、私はそうした先例を知りながらも、自分の母語である日本語においても同様のことがおこりえることに随分と無自覚だったのだ。 ところで、楊逸はごくごく最近のことだが、リービ英雄の『星条旗の聞こえない部屋』が「群像」に発表されたのは1987年3月、今からちょうど23年前のことで、しかもこの1987年3月とは私がこの世に生を受けた時である。23年前にも私のような奇妙な違和感を抱いた人物はいくらか存在したであろうし、そうした衝撃はきっと私が感じたもの以上に激しいものだっただろう。当時の文学界の雰囲気をこの身で感じとることは不可能だが、「異形」のものとして受け取られたであろうことはなんとなく察しがつく。 さて、最後にこの本を読み終えた後の感想を簡単に。この本を読んでいて私はソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』を想起した。「日本」というよく知る自分の母国の話を観て(読んで)いるにも関わらず、異国人の視点を通すことで、そうした自分のよく知る国のことが恐ろしく奇妙なものに感じられるという体験を、両者において同じように経験したというのがその理由。 是非、この本とあわせて、ソフィア・コッポラ監督の上記の映画も観ていただきたい。 ちなみに本書は野間文芸新人賞を受賞している。
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ゴー・ホーム。国って何だろう、と思ってしまいました。日本という国は目に見えない・実在しない観念上のもので、でもわたしたちは「日本人」として保障され縛られて生きている。ヘレン・ケラーが「ウォーター」という言葉を知ったように日本語を知った主人公。鏡に映った自分を見て「外人だ」と思って...
ゴー・ホーム。国って何だろう、と思ってしまいました。日本という国は目に見えない・実在しない観念上のもので、でもわたしたちは「日本人」として保障され縛られて生きている。ヘレン・ケラーが「ウォーター」という言葉を知ったように日本語を知った主人公。鏡に映った自分を見て「外人だ」と思ってしまう主人公。じゃあ、「日本」はどこにあるんだろう。
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