「不自由」論 の商品レビュー
「アメリカ現代思想」の5年前に書かれていたもの。読了直後はそこそこに面白く感じたが、一月が経過するとその記憶も薄れてしまった。所詮その程度の読み込みだったとも言える。
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「主体性」が発揮されるのは、ある「ルール」があってのことである。 主体性が大事だと主張していた団体に属していただけに衝撃的だった一冊。
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主体とは何なのか、まるで、僕らがしっかりと持っていると思われるような「主体」。言葉を変えれば「自分」であり「自己」。僕は自分が無いなんて全然感じたことがないけれど、周りには自分が無いと他人に言われ、自らもそう言っていた人がいた。主体とは、そんな有無で語れるような、ちゃんと輪郭をも...
主体とは何なのか、まるで、僕らがしっかりと持っていると思われるような「主体」。言葉を変えれば「自分」であり「自己」。僕は自分が無いなんて全然感じたことがないけれど、周りには自分が無いと他人に言われ、自らもそう言っていた人がいた。主体とは、そんな有無で語れるような、ちゃんと輪郭をもったものなのだろうか。 そして、彼女はなぜ自分が無いと思い、僕は自分が無いと思わないのだろうか。 僕たちは「自分」とは何なのかを深く考えたことがない。恐らく好き嫌い、快不快程度の感情のことを「自分」と思い込んでいるのだろう。そして国の指針を示すような頭の良い人たちも「自分」というものをちゃんと考察していない。つまり僕たちがなんとなくその存在を感じる程度のノリでエラい人たちも考えている。 自由主義が旺盛になり、自己決定の風潮がでてきてから「自分」という概念がクローズアップされてきた。それは詰め込み教育からの反省であり、多様な人生選択という生き方からの要請でもあったけど、もう一つ、自由主義社会での「自己決定論」がもっとも影響しているのだろう。自由経済では「自己(自分)」をしっかり認識している人間を前提にしないと話が前に進まないから「皆さん急いで自己を持ってください」みたいな本末転倒なロジックがある。「経済活動をする自己」ならば、なんとか輪郭を描くことはできる。自らの責任による決定さえできればいいのだから。そして、情報開示という方法で必要な条件はある程度はクリアできる。でも、経済活動における「自己決定論」と生きていく上での「自己決定論」を等しく考えてはいけないと思う。そこを同一視してしまうと、翻って経済活動をするもののみが「自己」であり主体性を持ちうるという、とっても苛立たしい認識が浸透してしまうように思うのだ。 少しでも生きていれば主体性なんてイヤでも持ってしまう。自分が無い人なんて誰一人存在しない。仮に自分が無いと言っている人がいたとするならば、それは無いのではなくただ自分を持ちたくないだけなのだ。
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しっくり、というわけではないが、伝えたいことがきちんと伝わってきてる(と私は)。 途中、「そういえばそうだ」と思える表現等あり、初めての論文であったがなかなか好印象で読み終えられたと感じる。
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なんだかんだ言って面白いですよ。アレント、ハーバーマスなどのフランクフルト学派を引用しながら、近代的な主体の作為性を懇切丁寧に説く。左右両陣営の主張って、互いに対する脊髄反射の結果なのかもしれません。ネグリ=ハートの話は必要無いと思った。
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ドイツフランクフルト学派のアドルノの「判りにくさ」の擁護とその根拠の展開。ハンナ・アーレントの「全体主義」と「人間性」の読み取りが、適度な深度で述べられている。その展開は、極度な人間性の尊重などという人権左翼好みのものではない。人間性の総体は、それが全体の縛りとなれば「全体主義...
ドイツフランクフルト学派のアドルノの「判りにくさ」の擁護とその根拠の展開。ハンナ・アーレントの「全体主義」と「人間性」の読み取りが、適度な深度で述べられている。その展開は、極度な人間性の尊重などという人権左翼好みのものではない。人間性の総体は、それが全体の縛りとなれば「全体主義」が成立するということであろう。アウシュビッツの元親衛隊員であったアイヒマンは、大悪党なイメージで語られるものとは違って、どこにでもいる平凡な役人であり、悪人の顔つきではないとするアーレントの言辞を取り上げて、悪は、ごく平凡な役人こそが、役人的根性で行うことで、成立するものであるとしている。尚、アイヒマンは、モーシェ・タヴォールという元ユダヤ囚によって逮捕された。タヴォールは、イスラエルの情報機関の職員である。■なんでも自己決定で、決めていことが出来る社会が、かえって、不自由を齎す社会になるという論理の紹介している。共同体的規制が無いところでの自己同一性を論じたりする、欺瞞の論理も暴いている。■自己決定の前提には、情報の自由が前提とされ、選択を実行するということが出来る周囲の状況が無ければならない。■自己決定するということが、決定しなければならないという強迫観念に縛られるとき、そこには「不自由」感が付きまとうことになり、自由を前提とする自己決定論が、不自由を増幅させることに繋がることにもなる。■こうした論理の展開が想定できることそのものに、仲正に「デリダ」の脱構築の実践を見ることが出来るし、またそれが仲正の秀逸さを物語るものでもあるだろう。■しかしながら、自己決定社会が理想だという議論が、その理想社会が出来たとしたら、理想の社会に違和感、なじめない社会であることも確かではあるだろうが、他律の自己決定なき社会も、共同の規範が占めつくす身分差社会もなじみにくい社会ではあるだろうと思う。他律と自律が、共存する社会が、ほぼ「理想」なのであって、それが実現しているのは、いまの日本で社会であるようないささか極論めくがそうした気がしないでもないのだが、だが何かしら、違う方向に動いているような印象もなくはない。■仲正は、また右派のいわゆる「自由主義史観」が左翼的に押し付けられた不「自然」な歴史観から「自由」であるという自由史観だという右派の主張は、かなり不自由であると批判している。自由史観の主張する国民的な自由というのは、ルソー的な「自由な自然人」のある変種である、としている。純粋な”自発的”な判断などありえないのであって、自分の文脈に引き入れて、自分の理想とするモデルを押し付けて的に提示し選択を迫らなければ、自由な主体的選択など出来ないのである。
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中正さんの本を初めて読んだんだけど、ものすごくわかりやすい。現代哲学をやっているだけあって、脱構築しまくり。本書の半分位をハンナ・アレンとの解説に割いているが、これも秀逸。
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