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魔女狩り の商品レビュー

4.2

28件のお客様レビュー

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本書を推す理由二点

僕の手元にあるのは、1970年第一刷のボロボロになった本なのだが・・・ 幾度となく読みかえしてきた。 本書を薦める所以。まず第一に、魔女として告発され刑死したヨハンネス・ユニウスなる 人物(バンベルク司教領市長)が娘に託した「遺書」の他、魔女狩りの犠牲者となっ 人たちの手...

僕の手元にあるのは、1970年第一刷のボロボロになった本なのだが・・・ 幾度となく読みかえしてきた。 本書を薦める所以。まず第一に、魔女として告発され刑死したヨハンネス・ユニウスなる 人物(バンベルク司教領市長)が娘に託した「遺書」の他、魔女狩りの犠牲者となっ 人たちの手紙が掲載されている点。歴史の闇に葬られていた真実の声がわずかながら 聞こえてくる点で貴重な記録だとおもう。 第二点。 それは、最終章、最後の一節にある。  しかし、「新しい魔女」はこれからも創作され、新しい「魔女の槌」の神学が 書かれるかもしれない。 この最後の一行、コレにより、この本は永遠なものとなった。すぐれて現代的な一書。

子門

 中世ヨーロッパで、…

 中世ヨーロッパで、神の名のもとに行われた「魔女狩り」。それは、15~17世紀のルネサンス時代に行われた。密告、拷問、捏造、残虐な処刑…、目を覆いたくなるような光景が明らかにされる。この書を読むと「魔女狩り」という言葉(比喩)は、安易に使えなくなる。

文庫OFF

感情論ではなく、史実…

感情論ではなく、史実に基づいた忠実な記述で読者に迫ってくる。

文庫OFF

2024/10/13

魔女裁判の最盛期がルネサンスの時代である事が、人間の保守性、宗教への依存性が如何に行動を縛っているのか。また、新しい魔女裁判が行われてもおかしくない人間社会の怖さを感じた。

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2023/12/09

これはまじですごい おもろいし、わかりやすい 1970年の本とは思えない キリスト教やべぇー 宗教くそこえぇー

Posted byブクログ

2023/07/11

中性からルネッサンスにかけて、ヨーロッパで荒れ狂った魔女狩りの実態を解説している本です。 ローマ・カトリック教会は、南フランスで展開された異端運動に対してアルビジョワ十字軍を送り込み、鎮圧します。そしてこの事件を機に、教会は異端審問にまつわる制度を整えますが、その制度のもとで残...

中性からルネッサンスにかけて、ヨーロッパで荒れ狂った魔女狩りの実態を解説している本です。 ローマ・カトリック教会は、南フランスで展開された異端運動に対してアルビジョワ十字軍を送り込み、鎮圧します。そしてこの事件を機に、教会は異端審問にまつわる制度を整えますが、その制度のもとで残虐な魔女狩りがおこなわれ、無実の人びとが魔女の烙印を押されて、拷問を受け、処刑され、財産をうばわれることになりました。本書は、そうした魔女狩りの実態を明らかにするとともに、それがもっとも激しくおこなわれたのが、近代の曙とされるルネッサンス時代であったことに目を向け、光に満ちた近代へ向けての進歩という、一般に広く受け入れられているヨーロッパの歴史の見かたの背後に存在していた事実をえがき出しています。 著者は、「人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない」というパスカルのことばを引用していますが、本書に記されているような非道なおこないが、信仰の名のもとにおこなわれたことを知ると、人間性そのものに対する絶望感にとらわれてしまいます。

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2023/05/28

参照: (『ヨーロッパとはなにか』増田四郎, 岩波新書) 「ルネサンスは、文字通り復興であり、再生である。何の復興または再生かといえば、教会中心の神学的世界観に対する人間中心の文化の復興にほかならない。 」 「ヨーロッパ人が……キリスト教圏だと自任するようになるのは、歴史的にはよ...

参照: (『ヨーロッパとはなにか』増田四郎, 岩波新書) 「ルネサンスは、文字通り復興であり、再生である。何の復興または再生かといえば、教会中心の神学的世界観に対する人間中心の文化の復興にほかならない。 」 「ヨーロッパ人が……キリスト教圏だと自任するようになるのは、歴史的にはよほど後世のことで、イベリア半島のイスラム支配をはねかえしてゆく過程、とりわけ十字軍の永い遠征の時期からではなかったろうか……。もしそうだとするならば、8、9世紀でなく、12、13世紀という時代が、意識の面でのヨーロッパの成立期だともいえぬことはない。」 引用: (『魔女狩り』岩波新書 p.178) 「魔女裁判は、中世前期の暗黒時代にではなく、中世末期、ルネサンスの動きとともに始まり、1600年を中心とする一世紀間は、魔女狩りのピークであるとともにまた、ルネサンス運動のピークでもあった。」 要約: 宗教裁判で金蔓からあらかた金を巻き上げてしまい、搾りかすだけでは教会の経済が成り立たなくなると、今度は異端者ではなく魔女に焦点を向けるようになり、そこに更にルネサンスによる宗教改革でプロテスタントが誕生すると、その運動と並行して魔女狩りは大いに盛り上がりをみせる。

Posted byブクログ

2021/06/16

魔女狩りとは、異端を排除するためのものだったのだ。 最初は教会も自分達の教えにそぐわないものに対してもおおよそ慣用であった。 しかし、自分達の地位を脅かすと判断したとたん、強硬的な姿勢を露にした。 疑わしいものは罰する。そのような姿勢のもと、残虐な魔女狩りが中世の時代には行われて...

魔女狩りとは、異端を排除するためのものだったのだ。 最初は教会も自分達の教えにそぐわないものに対してもおおよそ慣用であった。 しかし、自分達の地位を脅かすと判断したとたん、強硬的な姿勢を露にした。 疑わしいものは罰する。そのような姿勢のもと、残虐な魔女狩りが中世の時代には行われていたのである。 恐ろしいものだ。人は自らの地位を脅かすものや思いどおりにならないものに対して、時と場合によってはこんなにも残虐になれるのだ。 中世ヨーロッパと比較すると認識が弱いかもしれないが、今でもあらゆる領域において魔女狩りは行われているのだろう。これからもずっと。

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2020/06/11

15~17世紀の中世ヨーロッパで、「魔女狩り」の嵐が吹き荒れた。 それは、異端審問(inquisitio pravitatis hereticae)ともっともらしく呼ばれながらも、実のところ「狩り」というのがふさわしい、野蛮で残酷な狂気の沙汰であった。 「魔女」と見なされたのは...

15~17世紀の中世ヨーロッパで、「魔女狩り」の嵐が吹き荒れた。 それは、異端審問(inquisitio pravitatis hereticae)ともっともらしく呼ばれながらも、実のところ「狩り」というのがふさわしい、野蛮で残酷な狂気の沙汰であった。 「魔女」と見なされたのは、女性ばかりではない。男性も「魔女」として裁かれることがあった。年齢も問わず、幼児から老人まで、まさに老若男女、さまざまな人々が「魔女」の疑いをかけられた。身分階層も関係なく、昨日は学識ある紳士・純潔な乙女と呼ばれても、今日「魔女」にされることもあった。彼らの多くは、いやすべてと言ってよいのだろうが、もちろん「魔女」ではなかった。得てして「神」に背く気などさらさらない善良な人々が「魔女」として捉えられ、猛火に焼かれた。 記録も不十分なことから、いったいどれほどの人がその犠牲になったかは定かではないが、数十万から数百万の無実の人々が処刑されたと見られている。 なぜそのようなことが起こりえたのか。 1つの背景として、当時、「魔女はいる」ことは大前提であった。教会の大きな権威の元、神に背く「魔女」が必ずどこかに潜んでいるとなれば、人々はそれを探そうと躍起になるだろう。少しでも怪しいことがあれば、「あれは魔女だ」と告発される。よしんばそれに疑いを抱く者があっても「お前は神を疑うのか、魔女をかばうのか、お前も魔女なのか」と言われかねないのなら口をつぐんでしまうだろう。 「魔女」と目されたものは連行され、尋問される。尋問と言っても、裸にして鞭打ったり、指を木ねじで締めつけたり(時には骨も砕ける)、体を横たえて四肢を四方に引っ張ったり、と身体的苦痛を与えるものである。これはすでに拷問だろうと思うわけだが、「公式」にはこれは「予備尋問」であって拷問とは呼ばれなかった。この段階で「自白」が得られれば、「拷問なしに自白した」ことになる。 これでも自白しない場合には(魔女ではないのだから、普通に考えれば「自白」などできないわけなのだが)、本格的な拷問が待っている。体を吊り上げ、吊り落とし、水責めにし、ありとあらゆる残酷な方法が取られる。 「魔女」ではなく、「自白」しようもない事柄を、無実の人々はどうやって自白したのだろうか。 当時は明確な「魔女像」があった。秘密の集会に行く。悪魔との淫行にふける。体のどこかに魔女のあざを持つ。黒犬にまたがって夜空を飛ぶ。 拷問を受けながら、「お前は魔女だろう、これをやっただろう」と言われれば、苦痛のあまりに、身に覚えのないことであっても「自白」してしまうだろう。 魔女狩りに遭った人々は、いずれにしろ「魔女」だと決めつけられているので、どのみち逃げ道はない。「自白」するまで拷問されるか、拷問の果てに死んでしまうかということになる。自白をしない場合には、唆す悪魔の力が強いということになるのだ。酷い例では、手足を縛って池に投げ込むという「判別法」がある。浮かべば魔女の証明となり処刑される。沈めば魔女ではないが結局のところは溺れ死んでしまう。酷い話である。 尋問では、「共犯者」についてもしつこく聴かれる。拷問の厳しさから、心ならずも友人・知人の名前を挙げてしまう。後悔して取り消そうとしても一度口から出たものは取り返しがつかない。それらの人々も連行されて処刑される。 処刑される前に自白を取り消す例もなくはなかったが、多くはなかった。 大抵の処刑は火刑である。だが自白した場合には、火刑の前に絞殺されるのが常であった。生きながら焼かれるよりはましと絞殺を選ぶ者が多かったのである。 審問の際にかかった費用(拷問の費用や、裁判官・処刑人の日当、火刑の薪代等も含む)は、魔女本人が支払うべきものとされた。処刑の後、財産が没収されてその費用に充てられた。「魔女」が裕福であれば、得られる財産も多い。 宗教の名のもとに行われた魔女裁判だが、「金になる」側面が隆盛を助長した面も否定はできないだろう。 いやはや、怖ろしいことである。 パスカルは 人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行なうことはない(「パンセ」) と言ったという。 自らが「正しい」と信じたとき、それが「権威」と結びついたとき、どれほどのことが起こるのか、心に留めておくべきだろう。 魔女狩りの歴史をコンパクトにまとめた啓蒙の書、一読の価値ありである。

Posted byブクログ

2019/04/06

興味深く読んだが、70年代以降の研究でこの本における「教会・施政者主導で数十〜数百万人を虐殺」といった主張は否定されてきているようだ。 新しめの本も読まなければならないとは思うが、最近この手の本を読み過ぎた。人間不信が加速する。

Posted byブクログ