モーセと一神教 の商品レビュー
謎
良く作家を先生と言う人がいるが、その意味が解らない。
ななし
エス論ゴリ押しのフロイト大先生によるモーセとユダヤ教の大胆な読み解き。 この本の問題点を訳者の方が最後に指摘しているがとても面白かった。 掘り上げた宝物が意外と重くて開けるのが複雑だった、みたいな感じ。
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本書は、精神分析学の創始者と言われるジークムント・フロイト(1856~1939年)が、死の直前に発表した作品である。 松岡正剛氏は、「千夜千冊895夜」(2003年11月)で本書を取り上げ、「これは恐ろしい本である。引き裂かれた書である。しかも、これはフロイトの遺書なのだ。人生の...
本書は、精神分析学の創始者と言われるジークムント・フロイト(1856~1939年)が、死の直前に発表した作品である。 松岡正剛氏は、「千夜千冊895夜」(2003年11月)で本書を取り上げ、「これは恐ろしい本である。引き裂かれた書である。しかも、これはフロイトの遺書なのだ。人生の最後にフロイトが全身全霊をかけて立ち向かった著作だった。」と述べているが、ユダヤ教をはじめとするアブラハムの宗教に関わる人びとにとっては、衝撃の書であろう。 モーセは、アブラハムの宗教において、最重要な預言者の一人とされ、伝統的には旧約聖書のモーセ五書(トーラー)の著者であるとされている。その中の一つ『出エジプト記』によれば、モーセはエジプトにいる“ヘブライ人”家族の子として生まれたが、ファラオがヘブライ人の新生児を殺すことを命じたので、それから逃れるためにナイル川に流され、王女に拾われて育てられたという。長じて、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受け、エジプトからヘブライ人を連れて脱出し、40年に亘り荒野を彷徨った末、「約束の地」にたどり着いた(モーセは約束の地に入れずに死んだ)とされる。そして、そこでユダヤ教が生まれた。。。聖書の伝承はこうである。 ところが、フロイトは本書で、モーセはエジプトの高貴な家(王家?)に生まれた“エジプト人”であり、モーセがヘブライ人に伝えた宗教は、紀元前14世紀にエジプト第18王朝のアメンホーテプ4世(イクナートンと改名)が、エジプト古来の多神教を全面否定して作った、世界史上最初の一神教と言われるイクナートンの宗教(アートン教)であるとする、恐るべき仮説を提起するのである。 そして、「モーセ」という名前がエジプト語由来のものであること、世の神話の大多数に登場する英雄は極めて高貴な家の出身である(そして、夢・神託で危険を告げられた父親がその息子を棄てるが、息子は身分の卑しい人に救われ、成人するに至って父親に復讐を遂げ、他方真の素性を認められて、権力と栄光を得るのである)こと、ユダヤ教が、当時はエジプト以外では見られなかった割礼という掟を取り入れていること、エジプトでは、イクナートンの死後、守旧派により多神教が復活し、イクナートンの側近がイクナートンの一神教を携えてエジプト外へ脱出する動機があったこと、モーセは口下手だったとされるが、それはモーセがエジプト人で(少なくとも当初は)ヘブライ人の言語を解さなかったからと考えられることなど、その根拠を次々と挙げる。 モーセが祖国を去るにあたって連れ出したユダヤ人は、祖国に残してきたエジプト人の、より優れた代理人でなくてはならず、ひとつの「聖化された民」をこそ、モーセはユダヤ人から創り出そうと欲したのであり、これは聖書の文章にもはっきり表現されているのだ! しかし、なぜ“精神分析学者”のフロイトがこのような奇抜とも言える発想をし、文書に残したのか。。。?それは、フロイトが更に進める大胆な仮説が答となる。フロイトは言うまでもなくユダヤ人である。そして、自らの民族・宗教・歴史が持つ特性を明らかにしようとし、辿り着いたのが、モーセは(はじめは)厳格な一神教を受け入れられなかったユダヤ人に殺され、それがユダヤ人の「エディプス・コンプレックス」(ユダヤ民族にとっての父殺し)となったとする説なのだ。 精神分析学に興味がないと後半は少々読み難いが、前半の仮説部分だけでも極めてスリリングである。アブラハムの宗教に「if」を突き付ける、興味深い書。 (2019年11月了)
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冒頭の「モーセはユダヤ人ではなく、エジプト人だった」という仮説には、興味を持ったが、その後は全く理解できず。このブクログのレビューを見て、「そういう事を書いていたのか!」と理解させられる始末です。。。
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[ 内容 ] フロイトはその最晩年、自身の民族文化の淵源たるユダヤ教に感じてきた居心地の悪さに対峙する。 それは、“エス論者”として自らが構築してきた精神分析理論を揺るがしかねない試みであり、「生命と歴史」という巨大な謎と正面から格闘することでもあった。 「もはや失うものがない者...
[ 内容 ] フロイトはその最晩年、自身の民族文化の淵源たるユダヤ教に感じてきた居心地の悪さに対峙する。 それは、“エス論者”として自らが構築してきた精神分析理論を揺るがしかねない試みであり、「生命と歴史」という巨大な謎と正面から格闘することでもあった。 「もはや失うものがない者に固有の大胆さでもって、…これまで差し控えておいた結末部を付け加えることにする」―ファシズムの嵐が吹き荒れる第二次世界大戦直前のヨーロッパで、万感の思いをこめて書き上げられた、フロイトの恐るべき遺書。 [ 目次 ] 1 モーセ、ひとりのエジプト人 2 もしもモーセがひとりのエジプト人であったとするならば… 3 モーセ、彼の民族、一神教(第一部;第二部) [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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初フロイトにこの著作を選んだのは、偏に松岡正剛先生の千夜千冊での紹介文が面白かったからであり、せめて『トーテムとタブー』ぐらいは読んでおいたほうが良かったのだろうが、こればっかりは巡り合わせなので致し方あるまい。論理的整合性を保ちえないフロイトの仮説と、それを裏付けたいのか否定し...
初フロイトにこの著作を選んだのは、偏に松岡正剛先生の千夜千冊での紹介文が面白かったからであり、せめて『トーテムとタブー』ぐらいは読んでおいたほうが良かったのだろうが、こればっかりは巡り合わせなので致し方あるまい。論理的整合性を保ちえないフロイトの仮説と、それを裏付けたいのか否定したいのかよく判らない葛藤と熱量の高さは、訳者による鬼気迫る解題も手伝ってか、精神分析という一見静的なジャンルにあって異様な迫力に満ちている。
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ユダヤ人であるフロイトが、ユダヤ教に対して大胆な論を展開していることが興味深かった。 聖書の内容には神話的な部分が多々あるが、本書のように論理的に分析すると、改めて納得できる物語になってくると感じた。 本書前半はモーセの歴史的位置づけなど面白く読めてたが、中盤以降、精神分析的要素...
ユダヤ人であるフロイトが、ユダヤ教に対して大胆な論を展開していることが興味深かった。 聖書の内容には神話的な部分が多々あるが、本書のように論理的に分析すると、改めて納得できる物語になってくると感じた。 本書前半はモーセの歴史的位置づけなど面白く読めてたが、中盤以降、精神分析的要素が多くなってきて、用語も普段馴染みのないものなので、内容理解が苦しくなってきた。
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ユダヤ民族の解放者にして立法者であり、宗教創始者でもあったモーセ。 フロイトはそのモーセがユダヤ人ではなくエジプト人であったという仮説を立てます。 フロイトは、エジプトに一神教をもたらした古代エジプトのファラオ、イクナトンの業績に着目し、ユダヤ人のエジプト脱出はイクナトンの宗教...
ユダヤ民族の解放者にして立法者であり、宗教創始者でもあったモーセ。 フロイトはそのモーセがユダヤ人ではなくエジプト人であったという仮説を立てます。 フロイトは、エジプトに一神教をもたらした古代エジプトのファラオ、イクナトンの業績に着目し、ユダヤ人のエジプト脱出はイクナトンの宗教改革が失敗に終わった結果、行われたものだと考えます。 しかし、もしそうだすれば、モーセがセム人の神に対する信仰をユダヤ人にもたらしたという歴史家たちの研究と矛盾してしまいます。その矛盾を説明するために、フロイトは、モーセが実際には二人いたという大胆ですが単純な仮説を立てました。 一人目のモーセは、エジプトの神アトンに対する信仰を人々に教えたが、ユダヤ人たちに殺されてしまった。そのことを後悔したユダヤ人は、ヤーウェを崇拝するミディアンの祭司エトロを「二人目のモーセ」に担ぎあげたのだと。 ドイツの聖書学者ゼリンの主張の焼き直しであるこのモーセ殺害説を、フロイトはユダヤ教とキリスト教を特徴づけている「あやまち」や「罪」の観念と結び付けて展開しました。 宗教的な現象は、実は個人の神経症状に由来している。神経症状に似た結果こそ宗教という現象に他ならないとフロイトは考えます。 精神分析が本来、病める精神の来歴の分析から、個々の人間生活史の解釈から出発した学問であることを思うならば、フロイトがすべての事態について歴史性を問うのは必然的なのかもしれません。 過去と現在を心的因果性で結びつけて自論を展開するフロイトは、ユダヤ人はモーセの「作為・制作」の所産に他ならないと考えているふしがあります。 ユダヤの歴史は精神史であり、その歴史の根底にあって、歴史を開始させたのはモーセであると。 本書は冒頭から大胆な仮説によりいきなり引き込まれていきますが、歴史的事実に照らした説得力のある論証を見ていくと瞬く間に「常識とは何か」考えさせられます。 大胆な仮説と論理の展開は、知らず知らずのうちに常識に縛られている方にはぜひとも読んで頂きたいです。
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宗教がたどる歴史というのは実に神話的で、それ故におれは信用も出来なくて信仰心も薄い。しかし、世界で宗教、特に一神教がこれだけ影響力を持ち、尚かつ長い期間存在している事にはそれ相応の意味があると思っている。 モーセに関しては十戒と海を割った人くらいの知識しかなかった。この人が後世...
宗教がたどる歴史というのは実に神話的で、それ故におれは信用も出来なくて信仰心も薄い。しかし、世界で宗教、特に一神教がこれだけ影響力を持ち、尚かつ長い期間存在している事にはそれ相応の意味があると思っている。 モーセに関しては十戒と海を割った人くらいの知識しかなかった。この人が後世にこんな大きな存在を示すようになるとは、教科書くらいの知識では想像もできなかった。もちろん、おれの理解力や興味のなさがあった事を除いたとしても、である。 日本で生きているとそこら中に八百万の神々がいて、唯一神なんてのを拝む習慣はまずない。それ以前に仏教や大乗仏教を含め神道も混ざっていてブレンドの行き過ぎからかこだわりがない。よく言えば衝突しない柔軟さなんだろうけど、その反面表面的な知識しかないと考えられる。本書にもあるが、人間として唯一絶対の神に絞る方がよりどころとしては楽なはずなのに、なぜかこの極東の地においてはその例外である。 確かに、エジプトという発祥の立地から言って日本に来る頃には伝言ゲームくらいのノイズを含んでいる。実際、三大宗教という割に仏教だけは神が登場しないし、仏教ネイティブ曰く、宗教ではなく科学だと言う人もいる。 宗教的なバックボーンは信仰の如何に関わらず、その人を左右する要素としては十分すぎるほど大きい。そういう意味でフロイトが一神教について何を書くのかというのはちょっと興味があった。 ただどうしても、確実な事と言う話でもなくて、こういう歴史を経た事で今があると思うと上手く説明が出来るみたいな印象を受けた。とはいえ、一神教の一連の成立過程みたいなのが頭の片隅に入ってるだけでも宗教全体を解釈するヒントくらいにはなるんではないかと。 まあ、単なる好奇心での一読をおすすめ
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マルクスは資本主義を否定すると同時に唯物論者になった。 それは恐らくはアブラハムの唯一神を否定しなければ資本主義に対向する論理を組み立てられなかったからではないかと愚考する。 ならば、その大本の唯一神の成立を考察することは無益ではないだろう。 フロイトのこの最後の著作は...
マルクスは資本主義を否定すると同時に唯物論者になった。 それは恐らくはアブラハムの唯一神を否定しなければ資本主義に対向する論理を組み立てられなかったからではないかと愚考する。 ならば、その大本の唯一神の成立を考察することは無益ではないだろう。 フロイトのこの最後の著作は多くの矛盾を孕み、なおかつ歴史学者の間では異端とされる書物である。 しかし、ここには極東の私のような人間には一抹の真実を含んでいると思えてならないのである。 一度読んでみるといい。 この市場の底にいる原則を産み出すものが何か考えるきっかけにはなるだろう。
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