林芙美子・宮本百合子 の商品レビュー
平林たい子が書いた、…
平林たい子が書いた、林芙美子と宮本百合子の評伝。三人とも有名な女性作家ですが、現在ではあまり読まれなくなりましたね。
文庫OFF
「林芙美子」 一時一緒に暮らしていただけあって、水平にみてるが暖かい目で見ている。わりとだらだら書かれている感じなのだが引き込まれ、一気に読んでしまった。さすが平林たい子氏の筆力というものか。 平林は芙美子の人生、とりわけ男性関係は実母の影響も大きかったのでは、としている。ま...
「林芙美子」 一時一緒に暮らしていただけあって、水平にみてるが暖かい目で見ている。わりとだらだら書かれている感じなのだが引き込まれ、一気に読んでしまった。さすが平林たい子氏の筆力というものか。 平林は芙美子の人生、とりわけ男性関係は実母の影響も大きかったのでは、としている。また小林先生とも何度も会って、先生の日記もみせてもらっている。平林は小林先生はかなりな愛情を芙美子に持っていたが、岡野少年の存在は知らなかったとしている。そして芙美子が岡野の大学進学を追って女学校卒業後東京に行った時も、芙美子と岡野は同棲はしていなかったのではないか、としている。 芙美子は尾道での岡野少年、小学校の小林先生、そして東京に行ってからは、芙美子の文で「結婚」という表現がされている、俳優の田辺氏(田端320の相原家の二間ある部屋、3か月くらいで破綻)、詩人の野村氏と続く。野村氏とは、玉川方面で某家の留守を頼まれているところに芙美子が置いて下さい、と行き、そのうち坪井栄が小豆島から上京して結婚したのを機に、世田谷太子堂に坪井氏の隣に住む。大正14年、その家は平林たい子氏の住んでいる2階から芙美子の野村家の一室が見えた、とある。そして後にきちんと養子縁組をした手塚緑敏、と続く。しかし平林氏には冗談で「私は一と月に一度ずつ恋をしてるわ」とも公言し、”ほんとうにそうかもしれない”と平林は書いている。桐野夏生の「ナニアカル」に出てきた男性らしき人も出てきた。う~ん、桐野氏は無から「ナニカアル」を書いたわけではなかったのだ。 メモ ・この大正14年は、芙美子の詩「善魔と悪魔」が新潮社の「文章倶楽部」にのった年。 ・そのうちに芙美子さんはいなくなった ・風のたよりに新宿で働いていると知り、訪ねて行った。いまの武蔵野館のあたりが今でいう分譲地で八百屋がたった一軒だけ立っている空き地。その二階に芙美子さんは住んでいた。例の一閑ばりとギターと小豆色の羽座布団があった。・・野村はここにもときどき訪ねてきた。 ・私も彼女の口ききで鶴やのそばの店で働くことにしたので二人は毎日会った。 ・以前太子堂のころ、渋谷駅前の高級レストランで二人でほんのしばらく働いたことがあった。 〇鶴やでの生活は割りに長かった。その間に野村とは一歩ずつ離れていった。 ・この間に私だけはあちこち働き場を変えたが、ついに女給はやめる決心で本郷に去った。さんざん迷ったあげくに文筆で独り立ちしようと、本郷の酒屋の二階を借りた。 〇そこに、平林たい子の本郷の酒屋の二階に芙美子さんが時ちゃんという若い後輩をつれてやってきた。 ・・所帯の女としての芙美子さんは漬物、清汁が上手くきりきり働く女だった。・・<これが一緒に住んだ、という時期か> ・芙美子さんの弓ちゃんと時ちゃんは、ごたごたの私の所を出て、上野の池之端近くに室を借りた。 ・私の所在がきまらないので相当な時日の間、われわれは行き来がなかった。ある日私と同棲者とは神楽坂の宿でA氏に招かれた。 ・それから無音のうちに、大正15年になった。大正が昭和に代わった激情的な日の晩には、どこからともなく待ち合わせた私達は、銀座に出て行った。彼女は例によってお母さんに何か送った。 〇これまで彼女は、心情的に男女愛の不感症ではなかったか、と私は疑ったことがある。いつでも、彼女には、そんなことは何でもないことだった。湯水のように使ってよい無償のものだった。彼女のあこがれる至高の愛情の境地は高い空で自分を凝視している一つの星のように、美しすぎて命のないものであったのではなかったか。そういうものは、人間のつくった神と同じに幻でしかなく、現実には存在し得ないという考え方から、逆に肌に触れ得る激情だけに奔ることを自分に許したのではなかったろうか。 ・私たちはその晩会って、二人とも相手をみつめて笑い出した。 「林芙美子」は昭和44年に書かれた。 「平林たい子全集 10」 1979.5.25発行 図書館
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平林たい子の最期の力作といわれている。 苦境の時代を共有した友人の伝記だ。 林芙美子も宮本百合子も平林たい子もというか、このあたりの女性作家の小説とは縁がなかった。むしろ、なぜか避けて来たような気がする。 高校時代に読んだ微かな記憶はあるのだが、その読後感がよくなかったのかもしれ...
平林たい子の最期の力作といわれている。 苦境の時代を共有した友人の伝記だ。 林芙美子も宮本百合子も平林たい子もというか、このあたりの女性作家の小説とは縁がなかった。むしろ、なぜか避けて来たような気がする。 高校時代に読んだ微かな記憶はあるのだが、その読後感がよくなかったのかもしれない。 今回は林芙美子のことを調べる必要に迫られて本書を読んだわけで、だから、林芙美子の小説はもう食傷気味。だが、平林たい子のしっかりとした目線と気品のある文章に何作か読んでみようかと思わされた。 また、たい子の捕らえた宮本百合子も一度はきちんと読まなければならないのかもしれない。 友人としての私情を押さえた、けれど押さえ切れない何かかが行間から感じられるだけに資料以上の文学に近いものを感じた一冊だった。
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平林たい子の評伝(by群ようこ)を読んだのと、浜野佐知監督の次回作が「宮本百合子と湯浅芳子だ」というのとで、平林たい子が、林芙美子と宮本百合子について書いた評伝を借りてきた。 文庫をひっくり返すとこうある。 情熱の人・芙美子、知性の人・百合子、評するは稀代のリアリストたい子...
平林たい子の評伝(by群ようこ)を読んだのと、浜野佐知監督の次回作が「宮本百合子と湯浅芳子だ」というのとで、平林たい子が、林芙美子と宮本百合子について書いた評伝を借りてきた。 文庫をひっくり返すとこうある。 情熱の人・芙美子、知性の人・百合子、評するは稀代のリアリストたい子─三者三様の強烈な個性が躍如とする一冊。 ついイッキ読みしてしまうおもしろさだった。 この3人は、歳は少し違うが(平林たい子が明治38年うまれ、林芙美子がたい子の2つ上、宮本百合子がたい子の6つ上)、ともに明治うまれ、同時代を生きた。広津和郎が「その並び立つ姿は文壇空前の壮観」と言ったそうである。 西暦になおせば、たい子が1905年うまれ、芙美子が1903年、百合子は前世紀の1899年のうまれである。百合子と芙美子が1951年に亡くなったあと、たい子は20年あまり生きて1972年に亡くなった。芙美子の評伝も、百合子の評伝も、たい子晩年の作である。 たい子の筆によれば、芙美子も百合子も、その母を欠かしては語れない。 「そのお母さんこそ、芙美子さんの生涯に決定的な影響を与えた彼女の原型である」(p.9)といい、「百合子は、母のそんな意欲と期待に充分応え得る稀な才能をもって、早熟でもあった」(p.170)という。 そして、芙美子は「作家は素質によって書くけれども、機会によって磨かれる」(p.116)典型だといい、百合子は「豊かな富によってその素質の開花が促された作家である」(p.173)という。 私は、林芙美子の小説はいくつか読んでいるが、宮本百合子は小説のタイトルくらいしか知らないし、平林たい子にいたっては、3人のうちでもっとも長生きしたのに(私が生まれた頃にたい子はこの評伝を書いている)もっと知らない。 それは、林芙美子が尾道に縁ある作家だということ(父が尾道のうまれで、私の本籍地は尾道になっている)、また芙美子の名が字は違うものの自分と同じ音をもつものだということも関係あるような気がするが、単に、文庫になってるとか手に入りやすい本があるかどうかのような気もするし(私は高校生の頃に文庫の『放浪記』を買っている)、もしかしたら、あの学校のコクゴでやる文学史の変な分類や、そもそも文学史に女性作家がほとんど出てこないところに、私が芙美子を読んでいて、百合子やたい子を読んでいない分かれ道があるような気もする。 ただ、手にとる機会がなかった、「プロレタリア文学」という分類があまりそそらなくて読んでみようと思わなかっただけなのかもしれない。この評伝を読んで、芙美子もまた読んでみようと思ったし、百合子やたい子も読んでみたいと思った。 百合子については、こんなところがおもしろかった。 ▼たとえば顕治は、百合子の生い立ちの「何不自由のない階層のお嬢さん」というイメージをしきりに打消そうとしている。… 宮本顕治が縷々弁解するにもかかわらず、百合子は、豊かな富によってその素質の開花が促された作家である。(pp.172-173) 共産党という組織のためなのか、宮本顕治がそうしなければと思い込んだだけなのか、顕治はなんとかして「百合子は貧乏な家の出なのだ」と言いたかったようだ。けれど、そんな工作が、かえって百合子のよさをそこねている、娘を伸ばす自由さと、その裏づけとなる富と、まさに両手に花といった恵まれた条件があって、百合子という花は咲いたのだとたい子は書く。きっとそうだろうと思う。 百合子が、すでに作家として書いてきた中条という姓を、なぜ宮本姓にかえたのか。作品はぜんぜん読んでないのに、百合子が「中条百合子」だったことはなぜか知っていた私は、ここも興味深く読んだ。 ペンネームの改姓まで要求してきた顕治に、百合子はこう言ったらしい。「貴方は御自分の姓名を愛し、誇りをもつていらつしやるでせう。業績との結合で、女にそれがないとだけ言へるでせうか」(p.240) のちに、獄中にあった顕治を慮って(と私は読んだが)、百合子はペンネームも宮本姓とした。「あの百合子にこれだけの思いをさせる顕治とは何者ということもいえよう。だが、彼を愛したのは彼女である。それは、芸術と切りはなせない彼女の情緒豊満な自己表現の一部だったのである」(p.250)と、たい子は書く。 どちらの評伝も読みごたえがあった。たい子が「芙美子さん」と「百合子」と使っているところに、それぞれの性格と関係が見えるようで、そこもおもしろかった。 (2010/2/8了)
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