ターニャの日記 の商品レビュー
レニングラードは、1703年にピョートル大帝の指示によりペトロパブロフスク要塞と、その対岸に向かい合う冬宮(皇帝の宮殿)の建設を中心とした城下町だった。 ペトロパブロフスク要塞は、18世紀半ばころから政治犯を収容する牢獄として使われるようになり、ドストエフスキーやゴーリキーも収...
レニングラードは、1703年にピョートル大帝の指示によりペトロパブロフスク要塞と、その対岸に向かい合う冬宮(皇帝の宮殿)の建設を中心とした城下町だった。 ペトロパブロフスク要塞は、18世紀半ばころから政治犯を収容する牢獄として使われるようになり、ドストエフスキーやゴーリキーも収容された。レーニンの兄もつかまっていたらしい。 https://www.euras.co.jp/city-info/st-petersburg.html#con-11 この地はフィンランド湾に通じているため、そこからヨーロッパへの窓を開こうと考えたピョートル大帝は、ヨーロッパ各地から建築家や技術者を招き、突貫作業で西欧風の「石の都」を建設した。当時はサンクトペテルブルクと呼ばれており、それから約200年後の1914年にペテログラードと改名された。 改名して3年後の1917年に、ペテログラードでは十月革命(十一月革命)が起こり、社会主義ソビエトが誕生した。 https://www.y-history.net/appendix/wh1501-083.html それから7年後の1924年、革命の父と呼ばれたレーニンの死に伴い、ペテログラードはレニングラードになった。 https://www.soka.ac.jp/assets/static/special/berggolts/tanya.html 第二次世界大戦中、ドイツ軍に900日間封鎖されたレニングラードでは、63万2000人の一般市民が餓死した。 ザビチェワ一家も、市外で働いていた長女と兵隊に出ていた長男を除き、みんな死んだ。この本は、家族全員を看取ったターニャという女の子が遺した小さな日記についてのお話。 ターニャも生き残ることはできなかった。享年12歳。 この死者数には、ドイツ軍による空襲や砲撃で死んだ死者は含まれない。 レニングラードの市民は、第二次世界大戦によって死んだアメリカ・イギリスの犠牲者よりも、ずっと多かった。 レニングラード歴史博物館には、900日に及ぶレニングラード攻防戦時の市民生活をテーマにした展示だけでも13室を占める。 この本では、小学校で開かれたターニャに関する発表会で、発表している子が戦争を許さない若者になるという誓いの言葉を最後に書いているけど、著者がこの取材をしているちょうどその時、アフガニスタン侵攻真っ最中だったのに…でもこの著者はソ連を礼賛する立場だからこそ、当時のソ連でこれだけ取材をすることができたんだろうけど、でも現在からみると白々しさが大きい。 https://www.y-history.net/appendix/wh1702-001.html
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
この本 誰かのブログで紹介されてたのかな? なぜか 目に飛び込んで来て すぐに借りました。 レニングラードの話は 全然知らなかった・・・。 第二次世界大戦・・・。 すごく遠い昔のようだけど そんなことはない。 知らないでいい事なのか? 日本の歴史教育ってやっぱり間違ってる気がする・・・。
Posted by
- 1