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人間の測りまちがい の商品レビュー

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2022/10/28

差別の科学史という副題どおり、頭蓋学(頭の容量が大きい民族ほど賢い)とかIQの遺伝決定論(ばかは死ぬまで)を本気で信じていた人の研究をやり玉に挙げている。頭蓋学ではポール・ブロカ、IQではH・H・ゴダ―ド、ルイス・M・ターマン、R・M・ヤーキーズ、シリル・バート。曰く、最初から遺...

差別の科学史という副題どおり、頭蓋学(頭の容量が大きい民族ほど賢い)とかIQの遺伝決定論(ばかは死ぬまで)を本気で信じていた人の研究をやり玉に挙げている。頭蓋学ではポール・ブロカ、IQではH・H・ゴダ―ド、ルイス・M・ターマン、R・M・ヤーキーズ、シリル・バート。曰く、最初から遺伝決定論に役立つデータを探しているので、測定誤差やデータ解釈が歪められる(恣意的でない場合も含む)実例を羅列している。著者の意志が回りくどい記述で書かれているので(直訳しすぎ?)理解するのに疲れたが、言わんとすることは理解できた。  IQデータ因子分析の解釈に関して、スピアマンのgは存在しないというのが著者の主張らしい。gが遺伝でも環境でも説明できるので遺伝決定論の証拠とはならないまでは理解できたが、サーストンの回転でgがなくても複数因子でデータセットが説明できるからgは存在しないというのは飛躍しすぎでは?知能は遺伝ではないという先入観に著者が侵されている気がする。 IQテストのgと相関係数が高い生化学の指標が将来発見されて、gは頭の良い悪いの指標だったと判明すると期待しているのだが・・・大脳のシナプス数とか発火回数とかが候補だと思ってます。

Posted byブクログ

2021/11/12

半分も読んでいないんだけど、うーん、もう読まないかな。 ある人が好きな作家(というか)としてスティーブン・J・グールドを挙げていて、お勧めとしてこの本を教えてくれたんだけど…、あまり好みではありませんでした。 サブタイトルや帯にもあるように、いかに人類は科学の名の下で人種差別を...

半分も読んでいないんだけど、うーん、もう読まないかな。 ある人が好きな作家(というか)としてスティーブン・J・グールドを挙げていて、お勧めとしてこの本を教えてくれたんだけど…、あまり好みではありませんでした。 サブタイトルや帯にもあるように、いかに人類は科学の名の下で人種差別をしてきたか、という弾劾の書。 誰のどの論文のどの部分がどう誤っているのか、 いかに偏見が介入しているのか、 具体的に詳細に書かれている。 趣旨は素晴らしいし、誰かが書くべきなのかもしれない。 過ちがまかり通っていた世界ではこういった具体的な指摘は効果的で、後のあるべき道に軌道修正するには必要な論文だったのであろう、ということは理解できる。 が、一般読者向けではないかなー。 少なくとも、私は今現在科学があるべき形で機能していればそれでいいし、こういった過ちの歴史は、一般教養レベル、すなわち概要でいい。 正しい研究をわくわくしながら知りたいという欲求はあれど、過去に誰がどんな過ちを犯したかの詳細には興味がない。 多くの人々が似たような過ちを犯しているし、指摘は詳細なので、故にこの本自体も長い。 私には冗長で退屈で、読み通せませんでした。 私が求めているものと違う、というだけで、本の価値は素晴らしいのだと思います、という言い訳をしての★2で。 研究者以外の一般の人でこれが面白いって思う人って、なんかモラハラ気質があるような気がするんだけど、これは言い過ぎですすみません。

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2019/06/12

分厚い本だが、面白かった。かさぶたをつっつくみたいな屈折した楽しみがあって、疑似科学は大好物。 脳の容量を測れば知能がわかるとする骨相学。人種や遺伝で能力が決まるという考え方。優生学。IQ。自分たち(白人とか、上層階級とか)を上位に起き、自分たち以外(有色人種とか、労働者階級と...

分厚い本だが、面白かった。かさぶたをつっつくみたいな屈折した楽しみがあって、疑似科学は大好物。 脳の容量を測れば知能がわかるとする骨相学。人種や遺伝で能力が決まるという考え方。優生学。IQ。自分たち(白人とか、上層階級とか)を上位に起き、自分たち以外(有色人種とか、労働者階級とか、外国人とか)を下位に配置するのに都合のよい学説の数々。生暖かい苦笑いを禁じ得ない。 でも読んでいるうちに、なんとなくモヤモヤしてきた。これらの学説は科学的に正しくないから笑い事になっているけれど、もし正しかったとしたら、差別は正当化されるのだろうか? 問題はそこじゃないんじゃないかと思ったのだ。 自分たちの利益を守るには、他者を貶めるのが効果的だ。あるグループを縄張りからはじき出せば自らの分け前は増える。ある集団に損をさせれば利益は自分たちに回ってくる。当人たちが意識しているかどうかはともかく、他者を排斥する理由としての「他者が劣る/自分が優れている客観的な証拠」を提出する仮説があれば、それは人気を得る。 仮説が間違っていること自体は、科学の手法の中では「仮説が間違っていた」以上でも以下でもなく、非難されるべきことではない。1つの誤った選択肢が消えたという意味においては、正解にたどり着く過程の一つとして、むしろ歓迎すべきだろう。ぼくらは仮説が間違っていたことではなく、その仮説のさもしい出発点を嗤うべきではないかと思ったのだ。 もちろん、著者の狙いは「差別」そのものを分析することではないのだから、言いがかりみたいなものではあるのだけれど。 この「さもしい出発点」は別に昔の話じゃなくて、いまもそこら中に転がっている。

Posted byブクログ

2012/11/02

本書は随分前から読んでみたかった1冊。確か,どこかのブックオフで発見して最近購入。ここ最近,執筆中の論文関連の書籍しか読めていないが,たまたま思い立って読んだ。前から観相学に興味があって,骨相学や優生学も学んでみたいと思っていた。観相学については高山 宏氏の文章をや彼が訳したウェ...

本書は随分前から読んでみたかった1冊。確か,どこかのブックオフで発見して最近購入。ここ最近,執筆中の論文関連の書籍しか読めていないが,たまたま思い立って読んだ。前から観相学に興味があって,骨相学や優生学も学んでみたいと思っていた。観相学については高山 宏氏の文章をや彼が訳したウェクスラー『人間喜劇』も読んでいたが,これらの歴史は研究者としての興味というよりは,人間として知っておくべきことだと思う。21世紀の現代になっても根拠のない人種差別は後を絶たないが,歴史的には科学がそれに力を貸していたのだから,これほど怖いことはない。そして,本書を読んでみて分かったのは,こうした研究の多くが社会史的研究であるのに対し,本書は副題にもあるように,科学史という立場を貫いているところが他の人文・社会科学的研究と一線を画する。まずは目次をみてみよう。 第1章 序文 第2章 ダーウィン以前のアメリカ人における人種多起源論と頭蓋計測学――白人より劣等で別種の黒人とインディアン 第3章 頭の測定――ポール・ブロカと頭蓋学の全盛時代 第4章 身体を測る――望ましくない類猿性の二つの事例 第5章 IQの遺伝決定論――アメリカの発明 第6章 バートの真の誤り――因子分析および知能の具象化 第7章 否定しがたい結論 科学史というアプローチを採用しているが故に,本書の構成も非常に分かりやすい。本書に一貫したテーマは,人類の優劣を,人種や民族という単位で計量化する科学の歴史である。前半は人間の肉体的な性質の測定,後半は精神的な性質の測定に当てられる。もちろん,歴史的にも測定の容易な前者から難しい後者へと移行している。本書では主にアメリカ人の研究を中心に論じている(観相学や優生学がヨーロッパ中心であるところも異なる)が,頭蓋計測学は19世紀末にまで遡れる。 その頃のことだから,頭蓋骨の大きさの測り方も非常に素朴で,ある意味で面白い。なんと,頭蓋骨そのものにカラシの種子や鉛玉を入れて計測しているのだ。 そして,上記の社会史的研究はさまざまな社会的な言説を用いて論を組み立てるのが一般的だが,本書は歴史的な研究を,かれらが用いた資料をなるべく原データにまで当たり,それを同じやり方で計算し,データ作成の誤りや,その分析手法の誤りを一つ一つ検証するのだ。その根気には敬服する。ちなみに,本書の著者は個性物を対象とした進化論生物学者だが,単線的な進化論ではなく,それを複雑化しようということらしい。また,因子分析などの多変量解析にも長けていて,本書でもその詳しい解説がある。地理学でも一時期多変量解析を好んで使用していた時期もあり,私の学部時代にはそんな教育も受けたことがある。 そういう箇所などはなかなか読み進むのが大変だったが,やはり実りある読書だった。

Posted byブクログ

2012/01/11

19-20世紀の科学界で流行った「人々の知能を計測し序列をつけよう」と云う営みには、実は「人種や階級は知能の程度を反映している」との社会的偏見が根底にあり、研究者たちは純粋に科学的だと信じていたかもしれないがそうではなかったのだ…と云う筋。科学社会学の様に見えて「失敗事例には社会...

19-20世紀の科学界で流行った「人々の知能を計測し序列をつけよう」と云う営みには、実は「人種や階級は知能の程度を反映している」との社会的偏見が根底にあり、研究者たちは純粋に科学的だと信じていたかもしれないがそうではなかったのだ…と云う筋。科学社会学の様に見えて「失敗事例には社会的要因を、成功事例には自然主義的説明を」とブルアのストロング・プログラムなぞ何処吹く風になっている。尤も、グールドは百も承知で「科学知識の社会学みたいな論調は取らない」と最初に宣言しているのだが。 この点が本書の限界の一つを形成していると思われる。つまり、グールドにとって「ヒトの知能は測れるか」「人種や社会階級に沿って知能は序列を成しているか」と云った疑問に対する答えは、真か偽かなのである。当か非か、ではない。しかし、知能計測に勤しんだ研究者たちの営みは、「人間」や「知能」に関する(恐らく本人も気づかない様な)暗黙の前提の下で、それに関する知や真理が形成されていった過程だったのではないか。つまり、彼らの研究はある程度まで真理であったと言え、またこの前提の下に研究を続ける限り、「望ましくない」真理が生産される可能性は消せないのだ。 科学は真理を身に纏いその正当性を要求するケースが多いが(「それは科学的ではない」の文句は未だに強烈な力を有する)、実は我々には真理に先立って当為を問う事が出来るのだ、或いは当為を設定した後に真理を形成する事も出来るのだ、と云う方針を取った方が力強いと思うのであるが、果たして。

Posted byブクログ