時のかけらたち の商品レビュー
もうずいぶん慣れ親しんだはずの須賀さんの文章が、今回はなぜかすんなりと頭に入ってこない。 舗石を敷いた道を革靴で歩いているように、でこぼこしていてなんだか読み難い。 読み始めてしばらく、そんな違和感を感じていたが、やがて懐かしい哀しみに出会うことができた。/ 【さらに、序文の...
もうずいぶん慣れ親しんだはずの須賀さんの文章が、今回はなぜかすんなりと頭に入ってこない。 舗石を敷いた道を革靴で歩いているように、でこぼこしていてなんだか読み難い。 読み始めてしばらく、そんな違和感を感じていたが、やがて懐かしい哀しみに出会うことができた。/ 【さらに、序文の書き手は、ナタリアの(略)自伝的作品について彼女自身が書いた、「小説はすでに書かれていた、それに存在をあたえるためには、それにかたちと肉を与えるためには、それ[すでに書かれているもの]を〈道具として使〉えばいいのだということを、私はさとった」というコメントを引用する。そして、いう。作者は、それまで小説は書くものだと信じていた。が、あるとき「読むように」書けばいいのだと考えつき、それが彼女のあたらしい文体の発見につながったのだろう。】(「チェザレの家」)/ 【河原の石が白いのか、それとも月明りで白くみえたのか。とげのある灌木の枝を手で分け、まばらな常緑樹の林をぬけたところに、それはあった。夏の満月に照らされ、白一色の光につつまれたポン・デュ・ガール、ちょうど二千年ほどのむかしに、古代ローマ帝国の人々がニームの街に水を引くためガール川に渡した水道橋だ。川幅いっぱいにかがやく三層の白いアーチは、まるで人しれず地上に降りて遊ぶ天の帆船だった。夜の鳥がひと声、するどく啼いて、暗い谷あいに消えた。 ー中略ー 昼間だと、あの上を渡れます。ジャックがいった。いいのよ、渡らなくても、このままで。これまでに見た、いちばん美しいものみたいな気がするわ。ジャックが頬をあからめたのが、月の光でわかった。もういちど、彼がいった。あなたをここに連れてきて、よかった。】(「ガールの水道橋」)/ この作品が、須賀さんの最後のエッセイとなった。 彼女が企図していた小説も書かれずに終わってしまった。 だが、 《有機体が死んでも生は残る。》(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』) のである。
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パンテオンの郷愁、スペイン広場の佇まい ニッコローの図書館など… 建築・芸術・文学の嫌味のない語りが、 宛かも自分の思い出だった様な臨場感を与えた イタリアの街並みを作者と散歩したような 健やかな読後感を残した
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恐らくほぼ全ての著書を持っててこれは最期の一作。50代後半からエッセイを書き始めたという人なんだけれど、ヨーロッパの精神・建築・芸術・言語に対する深い造形があってこその文章でいつも打ちのめされます
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文章全体がやさしい。 平仮名と漢字のバランスも良いし、芸術的な用語をバシッと出して適度に読者を置いて行ってくれるのも心地よかった。 イタリアに思い入れがあるすべてのひとにお勧めできる一冊。 こんな文章がかける人間になりたい。
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須賀敦子が亡くなったのが1998年3月で、この本の出版が1998年6月なので没後にまとめられたエッセイ集ですね。 もとは『ユリイカ』の連載のようでパンテオンやアラチェリオの階段など、建築を中心に、絵画、彫刻、詩について語られている。 「須賀敦子の文章には嫌味がない」と...
須賀敦子が亡くなったのが1998年3月で、この本の出版が1998年6月なので没後にまとめられたエッセイ集ですね。 もとは『ユリイカ』の連載のようでパンテオンやアラチェリオの階段など、建築を中心に、絵画、彫刻、詩について語られている。 「須賀敦子の文章には嫌味がない」とある人が言っていたそうですが、たしかにイタリアの彫刻家やギリシャの皇帝、ラテン語の詩など、私にはまったくわからない話がでてくるのに、「わからない」ことが気にならないままその文章の美しさに酔える。 須賀敦子の解説が上から目線ではなく、彼女の思い出とともに語られるので、その作品が彼女にとって大切なものだということが伝わってくるからなのかもしれません。 死後の出版だからなのか、構成にはやや難が感じられるものの、いつまでも読んでいたくなるエッセイ集です。 以下、引用。 いつのまにか本屋めぐりは二の次になって、私はまるで古ぼけたテーブルクロスを、ひと針、ひと針、大事に糸でつくろってゆく老婆みたいに、足にそそのかされるまま、その辺りの「むかし」を、つぎつぎにたずね歩いていた。 コノ本ハ深イケレド、コチラノ本ハ深クナイ。アサイ、デス。私が少女時代のすべてを過ごした学校の西洋人の修道女たちは、そういうふうに、いっていた。深イ、は賞賛のことばで、浅イ、はペケだった。深イカンガエヲモツ人ニナッテクダサイ。ことあるごとに、彼女たちはそうくりかえした。
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初めて読んだ須賀敦子さんのエッセイ。今読んでも古くならず、瑞々しい文章に彼女の思想が溢れだしている。慎ましく、謙虚に、長い時代を超えて残っているものに対して敬意を払い、考えると同時に感じることで初めてアウトプットにつながる彼女の作風は、やはり作家が書くエッセイだからのだろうか。 ...
初めて読んだ須賀敦子さんのエッセイ。今読んでも古くならず、瑞々しい文章に彼女の思想が溢れだしている。慎ましく、謙虚に、長い時代を超えて残っているものに対して敬意を払い、考えると同時に感じることで初めてアウトプットにつながる彼女の作風は、やはり作家が書くエッセイだからのだろうか。 異邦人として感じる歴史と、その土地の人間に溶け込んでいる歴史にはやはり違いがあるわけで、人との交流や文学、自分で何度も尋ねるなど行動力と好奇心でその「深サ」に触れていく。 きっと僕がイタリアに行ったり、イタリア語を学んでいたり、芸術にもっと触れていれば、きっと彼女の最後のエッセイをもっと楽しむことはできたのうだろうが、残念ながら彼女の感じたこと、阻害感、それゆえの人の暖かさ、誰もを平等に受け入れる古代からの建築の素晴らしさは、文字通り、文字を読んで感じることしかできなかった。さらに独特の宗教倫理・ラテン語(ラテン語を並列に並べる僕もいかがと思うが)など、変えようのない歴史の重みが僕には、もっと楽しめることがあるのでないかと思わせた。それはきっと、彼女が見たもの、行ったところで、自分なりに勉強してどう感じるかがわからないと行けないのだと思う。 彼女も一度日本に帰ったあと、ローマに行くのに3年かかった。シンプルに暮らし、爪先に火を灯すような生活をするつもりはないけど、シンプルに生活することで3年後、ローマに立つことを夢見て。彼女ほどの人間が3年かかるローマの道は果てしなく長いが、今この一歩からスタートする。 彼女の早く終わりすぎた人生は恵まれていたかはわからないけれど、一種普遍性をもつ、冷静で論理的で、なおかつ感情を揺さぶられるイタリアの建造物のように荘厳でいつまでもそこにある、ということが大切だ。きっとこの本を読んで詩や建築や彫刻を目指そうとする人がいるかもしれない。そんなきらきらしたきっかけは、時間のかけらが積層してできた大きな聖堂のようにひっそりと埋まっている。
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