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1941年。パリの尋ね人 の商品レビュー

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2014/12/21

 ノーベル賞の選考委員は本作を「記憶の芸術」と評した。    パリでノートルダム寺院やサン=ルイ島あたりをうろついて、さてマレ地区の方へでも行こうかなと右岸に渡った辺りに、無名ユダヤ人犠牲者記念堂がある。この一冊との出会いは、観光ガイドには一切紹介されていないあの建物の前を偶...

 ノーベル賞の選考委員は本作を「記憶の芸術」と評した。    パリでノートルダム寺院やサン=ルイ島あたりをうろついて、さてマレ地区の方へでも行こうかなと右岸に渡った辺りに、無名ユダヤ人犠牲者記念堂がある。この一冊との出会いは、観光ガイドには一切紹介されていないあの建物の前を偶然通りがかり、あれなんだろうと覗き込み、ああそうかと気が付いて入場し、そうして簡単には言葉では言い尽くせない衝撃を受けたあの日のことを私に思い起こさせた。  国際空港のセキュリティーチェック以上の物々しい検査、中庭に建つ夥しい数の名が刻まれただけの壁、そうして1940年代の無数の老若男女の笑顔の写真、数え切れない数の家族の幸せな瞬間を写し止めたスナップ写真、それらは全てドイツ占領下のパリでそこから乱暴にもぎ取られアウシュビッツなどの収容所に送られ命を奪われた人たちがパリで生きていたときの「痕跡」であり「記憶」だった。  それらの「無名の人たちが生きた記憶」にまつわる展示を、現代のパリジャンたちが無言できわめて真摯な姿勢で見入っていた姿も忘れることができない。  パトリック・モディアノは、偶然見かけた尋ね人広告に載っていた15歳の少女ドラの足跡を、変質者かストーカーなみの執拗さで丹念に跡付ける。モディアノによって発掘された一人の少女の足跡は、あくまで無名の一人の少女にかかわりを持つ、家族や友人たちなどの、幾人かのやはり無名の人々の頭の中にあった「記憶」でしかない。  しかし、そのあくまで「個」の記憶はモディリアノの手によって、ドラと同じようにかつてはパリで普通に暮らしていたのに、突然捕えられアウシュビッツに送られ命を奪われたやはり無名の人たちの記録、すなわち無数の無名の記憶と結びつけられる。  そうして更に、モディアノ自身の実父とドラとの偶然の接点について語られる。無名の「個」の記憶と作家の「個」の記憶の接点は単なる「個」と「個」の偶然の邂逅ではない。徹底した「個」の記録にこだわった物語が人類の歴史の一断面という普遍性に出会った瞬間に立ち会った気がして、そのシーンで私は鳥肌が立つ思いがした。  「記憶の芸術」と評した選評は、  「忘却の彼方にある人々の運命を思い起こさせ、占領下の世界の人々を描き出した」  とも賞賛している。見事な表現だ。だが、この作品の歴史的意義と作者が結実させた芸術性には脱帽するけれども、普通の読者にとっては詳細すぎる記述は読み通すのに相当な根気を要することも言っておかねばならないだろう。  さらにまた、余計なことではあるかもしれないが、1941年の時点では世紀の悲劇の完全な被害者であったユダヤ人が、今日では様々なやむを得ざる理由はあるのかもしれないが、数多くの無名のパレスチナ人を殺す側に回っていることもまた事実である。  だから、モディアノの芸術は、1941年の悲劇の記憶のみを描いたのではなく、無名の人々の悲劇の全てが、今日の私たちを含むすべての私たちと無縁ではないのだという普遍的な訴えの書であってほしいと思う。タリバンの凶弾に襲われたマララさんが同時に平和賞を受賞したが、ノーベル賞がナチスやイスラム原理主義を単純に糾弾する偏狭な価値観から自由であるのかどうかは私にはわからない。しかし、『1941年。パリの尋ね人』は、この世に忘れ去られてよい記憶など一つもなく、抹殺されてよい無辜の命だってひとつもないのだという普遍的な叫びなのだと信じて、「私の」ノーベル文学賞を贈りたい。

Posted byブクログ

2014/10/26

(2014.10.25読了)(2014.10.16借入) 【ノーベル文学賞受賞】 著者は、2014年のノーベル文学賞受賞が決まった方です。村上春樹さん、今年も残念でした。受賞のニュースが流れた後、図書館の蔵書を検索してみました。三冊ヒットしました。 ノン・フィクションから入るのも...

(2014.10.25読了)(2014.10.16借入) 【ノーベル文学賞受賞】 著者は、2014年のノーベル文学賞受賞が決まった方です。村上春樹さん、今年も残念でした。受賞のニュースが流れた後、図書館の蔵書を検索してみました。三冊ヒットしました。 ノン・フィクションから入るのもいいかな、とこの本を借りてきました。 第二次世界大戦のナチス占領下の、パリでのユダヤ人について書いたものです。著者もギリシャ系ユダヤ人ということです。ただし、生まれたのが、1945年ということですので、ナチス占領下のパリで暮らした体験があるわけではありません。 この本の原題は、「ドラ・ブリュデール」です。邦題の、1941年の新聞に掲載された尋ね人の名前です。ユダヤ人夫婦の15歳の子供が失踪(家出?)したので、知っている人がいたら知らせてほしいというものです。 著者は、1988年から1996年にかけて、ドラに関することを調べ、その足跡を記したのがこの本です。尋ね人の広告の後、ドラはいったん両親のもとへ戻ったようです。 最終的には、両親もドラもユダヤ人として収容所に送られ亡くなったとのことです。 戦後において、ドイツにおいては、ユダヤ人虐殺の問題は、けじめをつけないといけない課題ですが、フランスにおいても、ナチスに協力してユダヤ人虐殺にかかわった人たちには、同様のけじめをつけないといけない課題のようです。 日本においては、東京裁判が全てで、自国でのけじめはつけないまま、今日に至っています。 【目次】 日本の読者の皆さんに  パトリック・モディアノ 1941年。パリの尋ね人 訳者あとがき  白井成雄 年表 ドラ・ブリュデールの運命とその時代 ●作家の務め(176頁) モディアノは「人生は浜辺に残された足跡のようなもので、打ち寄せる波によってたちまち跡形もなく消されてしまうものだ」と意識し、そのようなかすかな足跡を捉えて形に残すのが作家の務めである、と考えていた。 ●対独協力(187頁) フランス社会は1970年代以降から、占領下におけるヴィシー政府の対独協力政策の解明にのり出しており、ユダヤ人の絶滅収容所送りにフランス当局が積極的に参与した事実は、現在ではフランスの学校教育の現場でもはっきりと教えられている。 パトリック・モディアノ(Patrick Modiano)小説家 1945年7月30日、パリ近郊ブーローニュ=ビヤンクール生まれ 1968年、二十二歳の若さで発表した『エトワール広場』で鮮烈にデビュー      ロジェ・ニミエ賞受賞、フェネオン賞受賞 1972年、『パリ環状通り』でアカデミー・フランセーズ大賞受賞 1978年、『暗いブティック通り』(邦訳、講談社、1979)でゴンクール賞受賞 1996年、フランス文学大賞(全作品)受賞 2014年、ノーベル文学賞受賞 邦訳に、 『パリ環状通り』(講談社)、1972年作、野村圭介訳、 『イヴォンヌの香り』(集英社)、1975年作、柴田都志子訳、 『家族手帳』(水声社)、安永愛訳、1977年作、 『暗いブティック通り』(講談社/白水社)、1978年作、平岡篤頼訳、 『ある青春』(白水社)、1981年作、野村圭介訳、 『八月の日曜日』(水声社)、堀江敏幸訳、1986年作、 『いやなことは後まわし』(パロル舎)、根岸純訳、1988年作、 『カトリーヌとパパ』(講談社)、宇田川悟訳、1990年作、 『廃虚に咲く花』(パロル舎)、根岸純訳、1991年作、 『サーカスが通る』(集英社)、1992年作、石川美子訳、 『1941年。パリの尋ね人』(作品社)、1997年作、白井成雄訳、 『さびしい宝石』(作品社)、白井成雄訳、2001年作、 『失われた時のカフェで』、(作品社)、平中悠一訳、2007年作、 (2014年10月26日・記) (「BOOK」データベースより)amazon 「尋ね人。名前ドラ・ブリュデール、女子、十五歳、目の色マロングレー、うりざね顔…」。1941年12月31日、占領下のパリの新聞に載った「尋ね人広告」。これを偶然発見した時から、作家モディアノの10年にわたる少女ドラの行方を探す旅がはじまった…。歴史の忘却に抗し、名もなきユダヤ人少女のかすかな足跡を追い求め、フランスを感動の渦に巻き込んだ名作。

Posted byブクログ